旧姓の私の名前は、何度見ても妙に角が立っている。
画数が多いわけでも、読みにくいわけでもない。ただ、並びが強すぎると占い師は言った。
最初にそれを聞いたのは、駅前で声をかけてきた印鑑売りだった。最初は警戒したが、その人はやたら淡々としていて、名刺も出さず、ただ私の名前だけを紙に書いて眺めたあと、首を傾げた。
「これは……あえて高い判子を勧めなくてもいいですね」
営業としては失格の台詞だったと思う。理由を尋ねると、彼は少しだけ言葉を選びながら説明した。
「強すぎる名前です。守りも攻めも十分すぎる。ただ、その分、周りを弱らせる。結婚運は悪いでしょう。でも苗字は変わりますから。そこまで気にする必要はありません」
そのときは、半分も信じていなかった。ただ「最強の名前」という響きだけが、妙に耳に残った。
当時の私は、文章を書くことに取り憑かれていた。投稿サイトや同人誌、どれも本名で出していた。名前そのものが作品の一部のような気がしていたし、隠す理由もなかった。
ある晩、夢を見た。新聞を広げると、私のフルネームが大きく載っている。見出しまでは読めないが、確かに私の名前だった。目が覚めた瞬間、胸が妙に軽くなっていた。
似た夢を、過去にも一度だけ見たことがある。大学の合否発表の日だ。嫌な予感がして新聞を手に取ると、募集要項の隅に合格者一覧があり、そこに私の名前があった。だから今回も、自然とそう思い込んだ。投稿した作品がどこかに引っかかったのだと。
数日後、朝のテレビが騒がしかった。通勤前の何気ないニュースだった。事件の詳細はどうでもよかった。画面のテロップに、私の名前が流れた瞬間、全身の血が引いた。
同姓同名の容疑者だった。
いわゆるカレー事件だった。説明するまでもなく、名前だけが独り歩きする種類の事件だ。ワイドショーは連日、フルネームを連呼した。漢字も読みも完全に一致していた。
その日から、私の周囲の空気が変わった。職場で直接何かを言われることはなかったが、視線が一拍遅れる。初対面の人が名刺を二度見する。冗談めかして「例の人と同じ名前だね」と言われる回数が増えた。
電話もおかしくなった。無言電話。罵声。番号を変えても、しばらくするとまた鳴り始める。どこから漏れたのかは分からない。説明する気力も、否定する力も、徐々に削られていった。
夜、新聞を開くのが怖くなった。夢の続きを見ている気がした。紙面に載っているのは、確かに私の名前だった。ただし、そこにいるのは私ではない。けれど社会は、名前しか見ていない。
投稿していた作品は、いつの間にか反応が途絶えた。入賞の知らせも来なかった。それ自体は珍しいことではない。それでも、あの夢だけが喉に刺さったまま抜けなかった。
やがて事件の報道は減り、別の話題に塗り替えられていった。電話も止んだ。日常は表面上、元に戻った。
だが、名前だけは戻らなかった。
自己紹介をするたび、相手の目が一瞬だけ揺れる。その揺れを見るたびに、私は自分がどこかで既に有罪になっているような感覚に襲われた。何もしていないのに、名前が先に裁かれている。
結婚の話が出たとき、相手の家族が姓を気にした。理由ははっきり言われなかった。ただ「縁起」という言葉が、やけに重く落ちた。
結局、私は結婚して姓を変えた。占い師の言った通りだ。紙の上では、私は別人になった。
それでも、時々思う。あのまま名前を変えずにいたら、どうなっていたのか。あの夢は、当たったのか、外れたのか。それとも、名前が先に未来を決めていただけなのか。
今でも新聞を見るとき、無意識に自分の旧姓を探してしまう。載っていないことに安堵する一方で、どこかで待っている気もする。
次に載るのは、私なのか、名前なのか。
その違いを、もう誰も区別しない気がしている。
[出典:162 :カレーライス:04/09/16 11:29:06 ID:xL90w0Sd]