録音記録:案件番号904-B
――対象者:K(元長距離輸送業)
――それで、その対策というのは。
ああ。夜の国道を一人で走るのって、想像以上に神経を使うんです。特に女性だと。道の駅で仮眠していると、窓を叩かれたり、理由もなく車の周りをうろつかれたり。直接何かされるわけじゃなくても、それだけで心が削られる。だから、防衛策として助手席に相棒を作っていました。
ホームセンターで買った作業用のつなぎに、新聞紙を詰めるんです。胴体と腕、脚の形がそれなりに出るように。頭には工事現場用のヘルメットを被せて、バイザーを少し下げる。それを助手席に座らせて、ちゃんとシートベルトも締める。遠目に見れば、体格のいい男性作業員が同乗しているように見える。実際、それで声をかけられることは激減しました。
――なるほど。
最初は完全に道具でした。視線を逸らすための置物みたいなもの。でも、長距離を続けていると、だんだん妙な感じになってくるんです。休憩で車を降りるとき、助手席を見て「行ってきます」とか、コンビニから戻ってきて「待たせましたね」とか。誰かに見られても不自然じゃないように、演技のつもりで口に出していたんです。
一人の車内って、音が少ないでしょう。エンジン音と、タイヤがアスファルトを噛む音くらい。誰とも話さず、何時間も同じ姿勢で走っていると、頭の中が変に澄んでくる。相棒に声をかけると、その澄みすぎた感じが和らぐんです。返事があるわけじゃないのに。
――異変はいつ頃から。
去年の冬です。日本海側から内陸に抜ける峠道を走っていました。夕方から雪が降り始めて、気温も一気に下がった。チェーン規制が出ていたので、チェーン着脱場に入って停車しました。周囲は真っ暗で、街灯もほとんどない。風の音だけが、やけに大きく聞こえる場所でした。
外に出て、凍えた指でチェーンを巻いて、作業を終えて車内に戻ったんです。そのときも、いつもの癖で助手席に声をかけました。
「親方、寒いっすね。完了しましたよ」
そう言いながら、ヒーターの吹き出し口に手をかざした瞬間です。隣から、衣擦れの音がしました。
――車の揺れでは。
完全に停車していました。エンジンはかけたままでしたが、振動はほとんどない。音は、ナイロンのつなぎがシートと擦れる、あの乾いた「シュッ」という音でした。聞き慣れた音です。だからこそ、すぐ分かった。
恐る恐る横目で見ると、ヘルメットの向きが変わっていました。さっきまで正面のフロントガラスを向いていたはずのバイザーが、私のほうを向いている。首をかしげるみたいに、ほんの少し傾いて。
――確認は。
できるわけないです。頭が真っ白になって、反射的にアクセルを踏みました。チェーンを巻いたままなのも忘れて。車が動き出した瞬間、右半身だけが一気に冷えたんです。暖房は効き始めているはずなのに、助手席側の肩から腕にかけて、氷を押し当てられたみたいに感覚がなくなる。
そのまま配送センターまで休憩も取らずに走りました。荷降ろしも最低限で切り上げて、逃げるように帰宅しました。
――翌日は。
朝になっても、頭から離れなかった。だから、もう一度だけ確認しようと思ったんです。明るければ、きっと笑い話になるって。
駐車場で車に近づいて、ドアを開けました。相棒は、いつものまま座っていました。つなぎもヘルメットも、崩れていない。でも、違和感があった。
助手席のシートが、後ろに下がっていたんです。スライドレールが一番後ろまで。私は小柄なので、運転席も助手席も、かなり前に出していないと足が届かない。でも助手席だけ、大柄な男性が脚を伸ばして座る位置に調整されていました。
それと、フロントガラスです。助手席の前の内側だけ、白っぽい脂のような汚れがべっとり付いていました。拭き跡じゃない。額と鼻を押し付けて、じっと外を見ていたみたいな跡でした。
――それで。
その日のうちに仕事を辞めました。車も廃車にしました。全部処分しないと、ダメな気がして。今は事務職に転職して、車も軽に替えました。一人で乗る前提の、小さいやつです。
もう二度と、ああいうことはしません。人の形をしたものを、都合よく置いておくのは。
――それでも。
たまに思うんです。あれは、私が呼び続けた結果だったんじゃないかって。名前も、役割も、居場所も与えて。
今でも、一人のときに癖で口に出ちゃうんです。
――先日、残業でビルのエレベーターに一人で乗りました。扉が閉まりかけたところで、重量オーバーのブザーが鳴った。私以外、誰も乗っていないのに。
そのとき、とっさに言っていました。
「親方、一人分降りて」
そうしたら、ブザーが止まったんです。何事もなかったみたいに。
扉が閉まる直前、隙間から廊下が見えました。暗がりの中に、誰かが立っているような気がした。こちらを向いて、じっと。
それ以来、階段を使っています。
(了)