カンボジアのポル・ポト政権、戦慄の歴史
20 :本当にあった怖い名無し:2005/03/23(水) 03:07:38 ID:nUBNjmPo0
カンボジアは北海道の2倍程度の面積の国だ。
人口は現在約1千万人。首都はプノンペン。カボチャはこの国から伝わったのでその名がついた。
カンボジアの歴史は苦難の一言に尽きる。
かの有名な遺跡、アンコールワットが建設された12世紀では、インドシナ半島で最強の国家だったものの、その後は衰退の一途を辿った。
ベトナムやタイに領土を奪われ、第二次世界大戦渦中はフランスの植民地だった。
その状況を打破したのが、王族の血を引くシアヌークだった。
大戦後、彼は国際世論を巧みに操り、フランスから国土を解放した。1953年のことである。
この功績により彼は、『カンボジア独立の父』として民衆に敬愛されることになる。
多少独裁の色は濃いとはいえ、彼の手腕で国はそれなりに機能した。
それでも、後のポルポトによる圧政時代と比べれば格段に自由な時代で、当時を懐かしむ人々も多いという。そう、それほどポルポトの時代は酷かったのだ。
1970年。米ソ冷戦下。
アメリカのバックアップでロンノル将軍がクーデターを蜂起し、シアヌークは中国に亡命する。
クーデターを実際に画策したのはCIA。完全にアメリカのわがままだった。
このアメリカの暴挙には、以下のような背景があった。
1961年からのベトナム戦争で、アメリカは南ベトナムを応援した。
腐政に苦しむ南ベトナムの農民&ベトナムの統一を目指す北ベトナム軍 VS 利益を守るために邪魔な共産主義を排除したい南ベトナム軍
資本主義のアメリカは、この構図にも関わらず南ベトナムを応援した。民衆の幸せなんて一切考慮していない。
ただ、北ベトナムの共産主義が気に食わないから、南側を応援したに過ぎない。
ベトナムの南側と国境を接するカンボジアとしては、南ベトナムが勝利して力をつけると、自国が占領される恐れがあった。
よってシアヌークは、ベトナム寄りのカンボジア領に、北ベトナム(解放軍)の補給基地をつくることを、暗黙の上で了解した。
これで南ベトナム軍は、南北から挟撃される形になってしまった。
アメリカとしてはカンボジア領の補給基地を爆撃したいが、国際世論もあるのでカンボジアの了解が要る。ただ要請するだけでは、シアヌークは承知しない。
よってアメリカは、経済援助の凍結を武器に何とか爆撃を認めさせた。
そしてカンボジアの民衆ごと、補給基地に爆撃を浴びせた。
ベトナム軍だけでなく、カンボジアからも難民が大量に発生した。
この事実を証拠に、シアヌークが国際世論に訴えれば、アメリカはベトナムから手を引かざるを得ない。戦争に負ける。
そこで、カンボジアの要人・ロンノル将軍を使ってシアヌークを追放し、カンボジアを意のままに操ろうとしたのだ。
『世界の警察』は随分身勝手なことをする。むしろいない方がいいのでは?
ロンノル政権に移ってからは、弾劾される可能性はないので、アメリカはさらに爆撃を徹底して行うことができた。
カンボジア人の死亡者は30万人。200万人の難民が新たに発生した。
それと同時にロンノル政権は、重税をかけて国民を苦しめた。
亡命したシアヌークはすぐに軍隊を編成し、協力者を募った。
賛同したのはロンノル政権を排除したい北ベトナム軍。
そしてクメールルージュ。筆頭はかの有名な暴君、ポルポトだった。
民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで、クメールルージュは多数の志願兵を得た。
ここで解放軍の実質上のトップに、ポルポトが踊り出た。
ただし、この時点ではポルポトは温厚で、農民と共に汗を流し、田畑を耕したりもした。
兵士達も皆、友好的だったという。
そして、ベトナムがアメリカと合意して戦線を離脱したにも関わらず、ポルポト率いるクメールルージュは、1975年にロンノル政権を倒し、カンボジアをロンノル将軍から解放したのである。
ここまでは、ポルポトよりもむしろアメリカの方が悪者である。
ここまでは。
ポル・ポト率いる解放軍は首都プノンペンに入ると、すぐに民衆を着の身着のままで、強制的に地方の農村部に移すということを開始した。
逆らう者は容赦なく殺した。次々と殺した。
同様の行いが、大小含む全ての都市でなされた。
これらはあまりに迅速に実行されたので、国外に逃げられた人はほとんどいなかった。
そして国内を『平定』した後は、以下の政策を迅速に施行した。
・私有財産の強制的な没収。貨幣制度の廃止。
・電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止。
・バス、鉄道、飛行機等の移動手段の廃止。
・全ての教育機関の廃止と書物の焼却。
・仏教の禁止。寺や像の破壊。民族音楽や古典舞踊の禁止。(関係者は全て殺された)
・都市市民の農村部への強制移住。
・家族概念の解体。2歳から5歳以上の子供は全て親から隔離。
・自由恋愛の禁止。無作為の相手との強制的な結婚。
異論を唱えた者、従わなかった者は全て処刑された。
投獄なんて生易しいまねはしない。
全て殺された。
徹底していると普通は思うだろう。
これだけでも、歴史上類を見ない暴虐だと思うだろう。
しかし、ポルポトはそうは思わなかったらしい。
次にポルポトは、理想国家の建設のために協力者を集めた。
「例えロンノル政権に加担していたとしても、私は許す。資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。
それから、海外に留学している学生も帰って来て欲しい。理想国家を作るためには、君達の力が必要だ。 大切なのは、カンボジアの未来なのだから」
『国を良くするため』という言葉に共感した『インテリ』が次々と現れ、それこそ、国内のほとんどの高い教養を得た人々、海外に留学していた学生達がポルポトの元に集った。
彼らはポルポト兵に連れて行かれ、二度と帰って来なかった。
ポルポトは大嘘をついていた。
彼はフランスに留学していたので、民衆の集団決起の強さを知っていた。
よって理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、その指導者になれそうな教養を持った人間を、一掃したかったのだ。
そして民衆を、少ない食事で朝から晩まで牛馬のごとく働かせた。
不満を言う者、働けない者はどんどん殺した。
「疲れた」と言っただけで、スプーンをなくしただけで殺された。
次のような者も、即刻殺戮対象となった。
・眼鏡をかけている者。
・肌が白い者。
・手が綺麗な者。
・美形。
家族に至るまで、全て。
ポルポト率いるクメール・ルージュ政権は、密告を奨励した。
妻が夫を、夫が妻を、子が親を密告し、隣人を密告する。
そうした恐怖の密告社会の中で、国民は互いに殺し合った。
少しでも正義感が強いとか、物事を考える者はそれだけで殺された。
家族、一族もろとも。
誰も信用できず、栄養が足りず、指導者もおらず、反乱の芽は種になる前に焼かれた。
国民はポルポトに従うしかなかった。
ポルポト兵に入隊できるのは、13歳以下の少年に限られた。ポルポトの意向通りに洗脳し易いからだ。
結果、少年達はポルポトを神とあがめ、命令があれば肉親でも殺す鉄の兵隊になった。
そうしてポルポト兵は、狂信的集団へと収束していった。
1975年から1978年の3年間のポルポト政権の期間で、カンボジアでは約300万人の死者が出た。これは国民の1/3に当る大虐殺であった。
なぜ世界がこの虐殺を取上げなかったのか。
それには大まかに2つの理由がある。
1つは、ポルポトが徹底した鎖国政策をとり、人の移動や情報を封鎖したこと。
もう1つは、突拍子のない話で、真実味が感じられなかったこと。
実際に、何とかこの虐殺を報道するまでに至ったこともあったが、自国民をそこまで意味もなく虐殺するなどあり得ない、と判断されたのだ。
国家にとって何の利益ももたらさないではないか、と。
だから誰も信じなかったというわけだ。
しかし、虐殺疑惑の波紋は止め様もなく、取材の依頼が殺到した。
拒否し続けて国連の視察団が来れば致命的、と判断したポルポトは、限定地域、限定期間での取材を承諾した。
そこでは裏工作がなされ、平和な村を装ったので事実は隠蔽された。
疑問を解消できなかったジャーナリストの一部は、果敢に独自の取材を展開したが、そのほとんどは行方不明になった。
まず間違いなく、ポルポトの命で殺されたのであろう。
ポルポトによる狂気は、1979年のベトナム軍の侵攻をもって、公式の上では終わりを告げた。
そこでベトナム軍の兵士たちは戦慄に震えた。
実はベトナムの情報筋も、クメール・ルージュによる虐殺の噂は尾ひれのついたものであろうと、たかをくくっていた。
だが、蓋を開けたときに見たものは、噂を遥かに超える『事実』だったのだから。
ポルポト軍は、タイ国境のジャングルへ逃げ落ちた。
ポルポトは逃げる前に、軍人以外の民衆800万人を殺そうとした。
未然に防げたからいいようなものの、もし実行されていれば、生き残ったのは軍人5万人と、逃げていたカンボジア人5万人。
わずか10万人では、もはや国家とは呼べない。
カンボジア解放後、残った国民の85%が、14歳以下の子供であった。
これらの出来事が起こってからまだ30年弱。
決して遠い昔の話ではない。
つい最近に現実にあった悪夢。
これがクメール・ルージュ、そして純朴なる共産主義者・ポルポトの夢見た、『理想』のなれの果てなのだ。