最初に気づいたのは、自分の書いた文章が、保存されていなかったことだった。
下書きフォルダにもない。クラウドにも履歴がない。確かに書いたはずの一段落が、最初から存在しなかったかのように消えている。妙だと思いながらも、その夜は疲れていたので、気のせいだろうと端末を閉じた。
翌日、続きを書こうとして、違和感がはっきりした。
文章の流れが、明らかにおかしい。自分の文体なのに、自分が書いた覚えのない言い回しが混じっている。伏線のつもりで残した一文が、いつの間にか回収され、しかも雑に処理されている。
書いた覚えはない。だが、否定できる証拠もない。
コメント欄を開くと、見知らぬ感想が一つだけ付いていた。
「きれいに終わりましたね。これでアーカイブ可能です」
誰だ。
そう思った瞬間、画面の隅に一瞬だけ、砂時計のようなアイコンが表示された気がした。次の瞬間には消えていた。
その日から、文章を書き終えるたびに、奇妙な既視感が残るようになった。完成したはずの作品に、もう一段階先の「整理された形」があるような感覚。余白が削られ、角が丸められ、どこかで見たことのある物語に近づいていく。
続きを書こうとすると、指が止まる。
何を書こうとしていたのか、思い出せない。
代わりに、別のアイデアが頭に浮かぶ。
流行りそうな設定。
受けの良さそうな展開。
どこかで聞いたことのある結末。
それを書き始めると、妙に筆が進む。
ある夜、夢を見た。
巨大な暗い空間で、無数の文章の断片が宙に浮かんでいる。その間を、白い転送艇と、流線形のシャトルが忙しなく行き交っていた。どちらに乗っても、誰かが優しく声をかけてくる。
「こちらへどうぞ」
「もう悩まなくていいですよ」
自分の書きかけの物語が、どちらかの乗り物に吸い込まれていく。追いかけようとすると、足が動かない。いつの間にか、自分の胸の中からも、何かが剥がれ落ちている。
目が覚めると、枕元の端末に通知が一つあった。
「最終稿を確認しました。ご協力ありがとうございます」
そこには、完成したはずの自分の作品が表示されていた。
だが、読んでも、もう感情が動かない。
自分が何を言いたかったのか、思い出せない。
それでも作品は公開され、しばらく話題になり、やがて静かに忘れられた。
最近、創作仲間の間で、同じような話を聞く。
書いた覚えのない推敲。
見知らぬ助言。
完成した瞬間に冷める情熱。
皆、口を揃えて言う。
「でも、楽にはなったよ」と。
画面の隅に、稲妻のようなマークが一瞬だけ灯る。
その意味を考えようとした時には、もう次のアイデアが頭に浮かんでいる。
それが本当に、自分のものだったかどうかを確かめる術は、もう残っていない。
(了)