あの日のことを、私は思い出そうとして思い出しているわけではない。
朝、歯を磨くとき。
夜、布団に入って電気を消すとき。
生活の隙間から、勝手に浮かび上がってくる。
机の上に置いたICレコーダー。
赤く点滅する録音ランプ。
あの光だけは、今でも正確に思い出せる。
可美村貴代。
私の姪。
十三歳のとき、IZUMO社の旅客機事故で唯一生き残った少女。
事故以来、ずっと植物状態だと聞かされていた。
顔色のない皮膚。
閉じたままの瞼。
呼吸の上下だけが、そこに「いる」と教えてくれる存在。
私は何年も、彼女をそういうものとして見てきた。
先日、病院から連絡があった。
意識が戻った、と。
会話はできない。
声も舌も動かない。
そこで医師が用意したのが、奥歯に取り付ける小さな電極だった。
噛み締める回数で意思を伝える。
一回がノー。
二回がイエス。
それだけ。
病室には私と貴代だけだった。
午後の光がカーテン越しに差し込み、白い壁をなぞっていた。
機械音も、人の気配もない。
不自然なほど静かだった。
「こんにちは」
返事はない。
「私のこと、分かる?」
二回。
イエス。
その音を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。
生きている、と感じてしまった。
天気の話。
窓の外の木の話。
どうでもいいことを選んで話した。
そのたびに短い電子音が鳴る。
乾いた、軽い音。
なのに、空気を削る刃物のように感じられた。
私は聞いてしまった。
「事故のときのこと、覚えてる?」
沈黙。
しばらくして、二回。
イエス。
そこから先は、会話というより確認だった。
揺れはあったか。
あった。
それは急だったか。
違う。
一度止まり、また始まった。
窓の外を見たか。
見た。
それは原因か。
違う。
原因は別にあった。
羽が壊れた。
自然ではない。
誰かが壊した。
一人ではない。
私は、病室の時計を見ないようにしていた。
時間が進んでいることを意識すると、ここにいる理由が揺らぐ気がした。
「機内に入ってきた?」
二回。
そこから先、音は途切れがちになった。
噛み合わせの回数が乱れ、間隔が縮まり、電子音が連なった。
私は質問をやめられなかった。
やめると、何かがこちらに近づく気がした。
小さい。
子供ほど。
隙間から出てくる。
張り付く。
登る。
噛みつく。
言葉は少ない。
けれど、私の頭の中には勝手に像ができていた。
それが正しいのかどうか、もう確かめようがない。
突然、音が止んだ。
代わりに、別の音が混ざった。
ピタ、ピタ、と何かが吸い付くような音。
湿ったものが床を擦る音。
それが、確実に距離を詰めてくるのが分かった。
「貴代?」
返事はない。
白いシーツの端が、わずかに浮いた。
その隙間から、こちらを測る気配が増えた。
数が多い。
瞬きのない視線。
後ずさったとき、背中に冷たい感触があった。
いつの間にか、出口の前に何かがあった。
金属が擦れる音。
空気が、重く沈む。
耳元で声がした。
「おばさん……」
貴代の声ではなかった。
知っている声でもなかった。
湿って、低くて、近すぎた。
その先の記憶は曖昧だ。
気づいたとき、私は別の部屋にいた。
机の上に、ICレコーダーが置かれていた。
書類の端に、事件名が見えた。
桜美赤十字病院。
女性二名。
それ以上は、読めなかった。
本来、そこに私の名前があったらしい。
なぜか、今も私は生活している。
理由は誰も教えてくれない。
ただ、夜になると分かる。
あの日は終わっていない。
ベッドの下から、ずりずりと音がする。
噛み締める癖が、勝手に戻る。
何も付けていない歯が、応えるように鳴る気がする。
一回。
二回。
答えが何だったのか、もう思い出せない。
[出典:619 :本当にあった怖い名無し:2009/01/04(日) 21:39:58 ID:CbuCnonh0]