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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

忘れたはずの色 nc+

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幼稚園に入る前くらいまで、私には人の顔が見えていなかった。

そう言い切りたいが、本当はもう少し曖昧だ。
見えていなかったのか、見ていなかったのか、自分でも区別がつかない。

少なくとも、今のように「顔」として認識してはいなかった。

当時の記憶に残っているのは、形よりも色だ。
人はみんな、色の塊としてそこにあった。輪郭は定まらず、水の中に溶かした絵の具みたいに揺れていた。

姉はピンクだった気がする。
母はオレンジ。
父は緑。

そう思い込んでいるだけかもしれない。
あとから覚えやすい色を当てはめただけかもしれない。

ただ、色が感情で変わるという感覚だけは、妙に強く残っている。
機嫌がいいと澄む。
怒ると濁る。

濁った色は近づきたくなかった。胸の奥が縮む感じがして、理由もなく逃げたくなった。
だから私は、空気を読む子どもだったのだと、ずっと思っていた。

でも最近、その記憶も信用できなくなってきた。
色が見えていたから空気が分かったのか、
怒鳴られたり、無言で睨まれたりした体験を、後から色に変換して記憶しているだけなのか。

区別がつかない。

あの頃の世界には、嘘がなかったと思っていた。
笑いながら怒る人はいなかった。
優しい声で冷たいことを言う人もいなかった。

そう感じていた、という記憶だけがある。
本当にそうだったかどうかは分からない。

その世界で、一度だけ、まったく違う色を見た。

金色だった。

……と、私は言っている。

けれど金色が本当に金色だったのかも怪しい。
白だったかもしれないし、ただ明るかっただけかもしれない。
「特別だった」という印象に、あとから色を塗った可能性もある。

場所も曖昧だ。
家の外だった気もするし、家の中だった気もする。
相手が大人だったのかどうかも、実ははっきりしない。

ただ、その存在を見ていると、胸の奥が静かになった。
怖くもなく、嬉しくもなく、ただ動かなくなった感じ。

その人が私の頭を撫でた、という記憶がある。
でも触れられた感触は思い出せない。

「変わった視方をする子だね」

そう言われたはずだ。
けれど、その言葉も、誰かにあとから聞いた可能性を否定できない。
本当に聞いたのかどうか、自信がない。

その金色を最後に、世界は変わり始めた。

人に輪郭ができた。
目と鼻と口が分かれ、動くようになった。
顔として、はっきり見えるようになった。

それがいつだったのかも、正確には分からない。
三歳頃だと思っているだけだ。

ただ、ひとつだけ、はっきりした感覚がある。

「ああ、これは戻らない」

そう思った瞬間があった。
理由はない。説明もできない。
でも、なぜか知っていた。

色が消えていくことが、少し怖くて、少し安心だった。

これが普通なのだと、納得してしまった自分がいた。
自分から、こちら側を選んだような感覚。

それ以降、色の記憶は急に薄くなる。
顔の記憶が増えていく。

私は、人の表情を見るようになった。
声色や言葉の裏を読むようになった。
分からないものを、推測で埋めるようになった。

大人になってから、その方がずっと不便だと知った。

今なら分かる。
嘘は、顔の世界の方がずっと上手に作れる。

金色について、考えないようにしてきた。
考え始めると、記憶がずれるからだ。

あれは何だったのか。
ただの子どもの想像か。
脳の発達途中の錯覚か。
それとも、何かを「忘れる前」に見せられただけなのか。

最近、ときどき思う。

色が見えなくなったのではなく、
見える側に留まるのが、危険だっただけではないかと。

そう考えた瞬間、金色の記憶が少し変わった。
静かだったはずの色が、わずかに冷たく感じられた。

でも、その感覚も、今作ったものかもしれない。

結局、確かなことは何ひとつ残っていない。

色の世界は戻らない。
戻らないから、そこに何があったのかも、確かめようがない。

ただ、私は今でも、人の顔を見ながら、
その奥に、何かを探してしまう。

色なのか、
それとも、見てはいけなかった何かなのか。

もう思い出せない。
でも、忘れきれてもいない。

それだけが、残っている。

(了)

[出典:129 :名無しさん@おーぷん:2015/07/24(金)22:14:00 ID:hct]

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