山行六日目。
三千メートルの稜線から一気に高度を下げる行程は、その一年坊にとって、ほとんど拷問に近いものだった。
歩き始めて十分もしないうちに、俺は異変に気付いた。
背中越しに見える彼の顔色が、はっきりとおかしい。唇が紫がかり、視線が定まらない。足取りも不自然に遅れ始めていた。
俺は先頭を歩きながら、彼にすぐ後ろにつくよう指示した。
ザックを降ろさせ、彼の荷を俺のザックの上に細紐でまとめて固定する。こういう作業は慣れている。理屈も段取りも分かっている。問題は、彼の体がもう理屈に従っていないということだけだった。
一呼吸入れて、再び歩き出した、その時だ。
視界の端に、はっきりと「居た」。
山に入ってから、ずっと俺の視界ぎりぎりに居続けていた男。
正面から見ようとすると、木立や岩陰に紛れて姿が曖昧になるのに、意識の端にだけ、確実に存在を主張するあの男が、今はすぐそばに居た。
先頭の俺と、二番目を歩く一年坊の、ちょうどその間。
距離は一歩分もない。にもかかわらず、音もなく、気配だけがそこにある。
声は出さなかった。
声を出して確認するという選択肢が、最初から頭に浮かばなかった。山では、そういう直感に逆らうと、ろくなことがない。
テント場に着いた頃には、一年坊は完全に消耗しきっていた。
横になったきり、ほとんど身動きが取れない。高山病と疲労が重なった状態だ。水を飲ませ、最低限の処置をして、俺は彼の様子を見続けた。
そして、夜。
図々しいことに、奴はテントの中にまで入り込んできた。
狭い空間の中で、奴は笑っていた。
包み込むような笑顔で、一年坊を外へ誘う。その声は優しく、穏やかで、山の夜に妙に馴染んでいた。
不思議なことに、その都度、動けないはずの一年坊が起き上がる。
トイレだの、水だの、理由をつけて、ふらふらとテントの外へ出て行く。
俺は必ず後を追った。
一年坊と奴の間に割って入り、何度も進路を塞いだ。奴はそのたびに、露骨に不機嫌な顔を見せた。
夜は長かった。
奴は一晩中、一年坊を誘い続けた。誘われるままに動く一年坊の消耗は、目に見えて進んでいく。俺自身も、ほとんど眠れなかった。
夜明け近く、初めて奴が俺に声をかけてきた。
すぐ耳元だった。
「どうして駄目なんだよ」
責めるようでも、怒鳴るでもない。
ただ、理解できないものを見るような声だった。
俺は答えなかった。答える必要がある気がしなかった。
朝になると、奴は居なかった。
一年坊は、時間が経つにつれて、明らかに元気を取り戻していった。顔色も戻り、足取りも安定している。
俺たちはテント場を撤収し、下山を再開した。
しばらく歩いたところで、正面に奴が居た。
そこは、奴を初めて見た場所だった。
過去に遭難者が出て、遺体を焼いたこともある、開けた広場。
風もないのに、妙に空気が澄んでいる。
その瞬間、右の首筋あたりで、はっきりと声がした。
「お前は、二度と来るな」
それが誰の声なのか、今でも断定できない。
目の前の男の口は動いていなかった。だが、山全体がそう言ったようにも感じられたし、過去にここで命を落とした誰かの声だったようにも思える。
朝の光の中で、奴の姿は次第に輪郭を失い、やがて消えた。
俺たちは何事もなかったかのように下山した。
後になって考えれば、否定的な説明はいくらでもつく。
俺自身も疲れていたし、高度障害や緊張による幻覚だった可能性もある。超常現象の多くは、そうやって説明できるのだろう。
それでも、俺の実感として、あの頃は妙なものをよく見ていた時期だった。
そして一方で、ああいう「奴」に導かれたおかげで、無事に下山した者がいるという話も、確かに聞いたことがある。
山は、人を助けることがある。
だが、それが人間にとっての善意と一致するとは限らない。
その境界線を、俺はあの夜、確かに踏み越えかけたのだと思っている。
[出典:263 :全裸隊 ◆CH99uyNUDE :05/02/24 23:58:05 ID:+1h8o2q40]