これは七年ほど前(平成六年・1994年頃)のある雨の日に、六本木でタクシー運転手から聞いた話だ。
深夜まで遊んでいた帰り、横浜まで乗せてくれる車を拾った。防衛庁の近くで客待ちしていた古い個人タクシーだった。長い道中になると思い、暇つぶし半分で「何か怖い話はありませんか」と聞いた。運転手はしばらく黙ったあと、前を見たまま低い声で「ありますよ」と言った。
数日前の雨の日、その運転手は同じ場所で客待ちをしていたという。近くのビルの庇の下で、五人の男女が言い争うように話していた。やがて二人は高級車に乗って去り、残った三人のうち一人の男がタクシーに乗り込んできた。濡れた肩を気にも留めず「野方まで」とだけ言ったという。
走り出してしばらくすると、後部座席の男がぽつりと話し始めた。「信じてもらえないかもしれないけど」と前置きして、その夜の出来事を語った。麻布で食事を終え、知人がやっているというバーに五人で寄ったらしい。ビルの五階にある小さな店で、病み上がりだというマスターに迎えられ、奥の席で飲み始めた。
しばらくすると、理由もなく全員が黙り込んだ。音楽は流れているのに、会話だけが抜け落ちたようだったという。誰かが何かを言おうとすると、喉の奥で言葉が止まる。女性の一人が「この店、変」とつぶやいた。理由は言えないが、入口のあたりが嫌だと言った。
男の一人が冗談だと笑って入口まで行った。そこには竹のついたてが立っていて、和紙で作った平たい人形が貼ってあった。顔は描かれておらず、家族の形に見えるだけだった。席に戻ると、皆の顔色はさらに悪くなっていた。人形を見ていないはずの別の男も、トイレが気味悪かったと言い出した。
その後、例の男がトイレに立った。薄暗い個室で用を足していると、両肩に重みを感じた。誰かが手を置いたような感触だった。振り返っても誰もいない。逃げるように戻り、店を出ようと言った。全員が同意し、会計を済ませて外に出た。
ビルの下で雨を避けながら、五人はそれぞれが感じた違和感を話し始めた。運転手はその様子を少し離れた場所から見ていたという。
ここまで話した運転手は、しばらく黙ってから続けた。「そのあとですよ」と。男がタクシーに乗り込んだ瞬間、窓ガラスが一斉に曇った。夏でも冬でも曇らなかった車だという。後部座席から、はっきり形のない気配を感じた。剣道をやっているせいか、背後に立たれた感覚には敏感だと言った。「酔っ払いのそれじゃなかった」と。
野方に着くと、運転手は男に早く降りるよう促した。降りたあと、何かを払うように手を叩き、軽く頭を下げた。すると、さっきまであった重さが薄れた。運転手はそれ以上何も言わず、走り去ったという。
話を聞き終えたとき、運転手はバックミラー越しにこちらを見て「お客さんも、気をつけた方がいい」と言った。「さっきから、ガラスが曇りやすい」
翌日、どうしても気になって友人と龍土町のそのビルを訪れた。運転手が言っていた店の名前は、舞うとか踊るとか、そんな字だったという。五階に上がると、廊下に線香の匂いが漂っていた。奥に小さな扉があり、店の名が書かれていた。
中を確かめようと扉を開けかけたが、思い直してやめた。入口の横には竹のついたてがあった。和紙の人形も貼ってあった気がする。ただ、それが前に見たものと同じだったのかどうか、今となっては分からない。視線を合わせた瞬間、理由のない焦りが込み上げ、非常階段に向かって走り出していた。
その後、店はいつの間にか消えた。看板も記録も残っていない。あの夜の運転手とも二度と会っていない。
今でも雨の夜、タクシーの窓が曇ると、後部座席を振り返らずにはいられない。何もいないと分かっていても、そこに座っていたはずの気配だけが、まだ降りていない気がする。
参考:龍土町について
龍土町(りゅうどちょう、麻布龍土町、あざぶりゅうどちょう)は、かつて東京・麻布にあった町である。
龍土町は、江戸時代から1967年(昭和42年)まで存在した町名で、町域は現在の東京都港区六本木7丁目に含まれる。
1907年(明治40年)から1947年(昭和22年)までの期間を除いては、「麻布龍土町」という町名で当時は祭りで割と賑わう地であった。
「龍土町」の名称は、漁師が多く居住していた海に面する村・愛宕下西久保の猟人村(りょうとむら)が、元和年間に麻布領内に代地を与えられた際に「龍土」と改称したという説もある。
現在の地理では、旧防衛庁の跡地に建設された複合施設「東京ミッドタウン」外苑東通りを挟んで向かい側の通りの一画にあたる。
龍土町には、1900年(明治33年)に日本で初めてのフランス料理店として開業し、文豪らが集うことでも知られたレストラン「龍土軒」があったほか、二・二六事件を首謀した歩兵第3連隊が置かれていた。
また、江戸川乱歩の小説に登場する探偵・明智小五郎が事務所を構えているのも龍土町という設定であった。
最近の発展で飲食店もふえ、又ビルのオーナーも深夜営業するお店を多様に入れるので明け方まで営業している店が増え、治安の悪さが目立つようになってきて、朝方のひったくりや器物損壊や暴行など今までなかった傾向になってきている。