これは、警察官をしている友人から聞いた話だ。
正確に言えば、彼自身は「聞いた話」とは呼ばなかった。
「あれは、関わった話だ」とだけ言った。
だから今でも、どこまで語ってよいのか分からない。ただ、あの日の彼の顔色があまりにも異様だったことだけは、記憶から消えない。
例の事件が起きたのは、もう十年以上前になる。
住宅地の一角にある一軒家で、母親と子ども、そして高齢の祖母が殺害された。白昼の出来事だった。家の主だけが外出していて難を逃れた。
物取りの線も、怨恨の線も、すべて洗われたが、結局、事件は未解決のまま時間だけが過ぎた。
友人は、事件後に設けられた警備ポストに配属された。
家の正面道路にパトカーを停め、二人一組で常駐する役目だ。交代制で、数か月にわたってその場所に立った。
事件直後は、現場保存のため家はそのまま残されていた。
だが、ある時期を境に、急に取り壊されることになった。
理由を尋ねても、彼は曖昧に笑うだけだった。
ただ一度、酒に酔った席で、ぽつりとこぼしたことがある。
「もう、無理だったんだよ」
物理的な損壊や老朽ではない。
そこにあった何かが、内部で問題になったのだと、彼は言った。
「信じるとか信じないとか、そういう話じゃない。見たんだよ。見るしかなかった」
家の中に入れたのは、限られた人間だけだった。
友人自身は一度も立ち入っていない。だが、出入りしていた先輩刑事や鑑識担当から、同じ言葉を何度も聞かされたという。
「見た」
それ以上の説明は、誰もしなかった。
現場には、事件当時の痕跡が残っていた。
運び出せる物は撤去されていたが、床や壁には、黒ずんだ染みがまだらに残っていた。
玄関に立つだけで、鼻の奥に鉄のような匂いがまとわりつく。
その匂いが、何かを呼ぶ。
そう呟いた者がいたと、友人は聞いている。
家の中には、妙な重さがあったという。
音が吸い取られるようで、立っているだけなのに、背後に視線が張り付く。
不思議なのは、その感覚を抱いた者が、誰一人として「自分だけが感じた」と言わなかったことだ。
皆、同じところで、同じ違和感を覚えていた。
その一致が、何より不気味だった。

警備ポスト初日、上司から言われた言葉がある。
「ノックがあっても、振り向くな」
冗談めいた調子だったのか、命令だったのかは覚えていない。
だが、それが冗談ではなかったことを、彼はすぐに思い知る。
夜八時を少し回った頃だった。
助手席側の窓が、内側から叩かれた。
コツ、コツ、コツ。
反射的に視線を向けそうになり、寸前で止めた。
窓の外には誰もいない。ただ暗闇が広がっているだけだった。
だが、ガラスには、うっすらと曇りが残っていた。
そこに、手の跡が浮かんでいた。
小さい。子どもの手のようだった。
次の日も、その次の日も、ノックはあった。
時間は一定ではない。だが、回数はいつも三回だった。
三週間ほど経ったある夜、深夜三時半。
パトカーの前後左右、四方向の窓から、同時に音がした。
コツ、コツ、コツ。
その瞬間、車内の空気が一段、沈んだ。
誰も声を出さなかった。出せなかった。
それ以来、彼は眠れなくなった。
勤務中、無意識に例の家の二階を見てしまうことがあった。
だが、どうしても「見えない」のだという。
視線を向けた途端、焦点がずれる。
他の窓ははっきり見えるのに、そこだけが霞む。
脳が、拒否しているようだった。
同じポストに就いていた同期のうち、三人がその年のうちに職を離れた。
理由は語られなかった。
一人は実家に戻り、一人は連絡が途絶え、一人は長期入院したとだけ聞いた。
「あれ、家じゃなかったんだと思う」
友人は、そう言って口を閉ざした。
それ以上の言葉はなかった。
ただ、それ以来、彼は鏡のある場所で眠れなくなった。
夜、窓に自分の顔が映り込む時間帯には、決して近づかない。
事件から十年が過ぎ、あの家は更地になった。
今では、新築分譲の予定地として広告も出ているらしい。
友人はもう、この話をしない。
こちらが話題に出しても、最初から存在しなかったかのように黙り込む。
最後に聞いた言葉は、短い。
「家がなくなっても、ノックは止まらなかった」
それを聞いてから、私は夜中に窓の音がすると、息を殺すようになった。
時計を見る。
一回。
二回。
三回。
それ以上、数えない。
耳を塞ぐ。
どこかで、誰かが、振り向いてしまわないように。
(了)