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短編 工事現場の怖い話 n+2025

光の角度 n+

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今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。

鉄と湿った土が混ざった匂い。油の膜が薄く浮いた水たまりは、月を欠けた皿みたいに映していて、指先で触れると冷たさだけ残した。晩夏の夜気はぬるく、ブルーシートが風で擦れ、足場の金具がときどき乾いた音を鳴らす。作業用ライトは落としてある。光は懐中電灯だけ。丸い光輪がコンクリートの肌をなぞり、黒い影が輪郭を増やす。現場の奥では鉄筋工の飯場が息をひそめている。梱包用の結束線が床に落ち、靴裏に貼りつく感触が嫌に生々しい。

夜の見回りはいつも同じ順路だ。仮囲い沿いに歩き、型枠置き場を回り、資材ヤードから飯場の外周へ。夏休みの終わりの空気の下で、カエルの声が遠く薄い。俺は新米の現場監督で、先輩と組まされている。先輩は気が弱く、気配だけで驚くような人だが、道具の整頓にはうるさい。俺はその背中を追いながら、足場板のたわみを確かめる癖をつけた。足首に汗がまとわりつき、作業靴の縁が擦れてくすぐったい。

見回りを始めてから、鉄筋工たちは不思議におとなしくなった。警察沙汰を避けたいのもあるだろう。飯場の灯は薄く、ラジオの電源は切られたまま。夜の現場は、余計な声を吸いこんで、息だけを返してくる。その静けさの輪郭が、かえって落ち着かない。懐中電灯の光は、濡れた鉄筋に当たると白く跳ね返り、目の奥に残像を置いていく。

型枠の釘頭には全てゴムキャップをはめさせた。鉄筋の先端にも赤いキャップ。今月は安全月間で、所長は口癖みたいに繰り返す。「事故は数字で評価される」。俺は数字を守る側にいるつもりだった。今日も、通路の角に出しっぱなしだったパイプを脇へ寄せ、結束線の輪を拾ってポケットに入れた。指に油のぬめりが残り、タオルで拭くと黒い筋がついた。

巡回の終盤、飯場の影の切れ目に差しかかったとき、光の輪の縁が波打った。足が一本、通路のほうに投げ出されていた。白い靴。砂埃に濡れた泥が薄く塗られている。光を寄せると、そこに人が倒れていた。鉄筋工のひとりだ。腹のあたりに黒いものが集まり、タールみたいな匂いが鼻に重くつく。顔は汗と土で濡れていて、目は俺の光から逃げるように細く、唇が何かを噛んでいる。

先輩が短く息を吸って固まった。俺は喉が乾くのを感じたが、膝をつき、タオルを外して手で押さえた。手に温度が移ってくる。脈打つたびにタオルがじわじわと重くなる。何が刺さったのか、何でこんなことになったのか、頭の片隅で並べ替えを始めている自分がいた。釘か鉄筋か、あるいは割れた型枠の端か。光をずらすと、足場の角に小さな黒い点の列があった。血の飛沫。流れが示す方向を目が追う。

俺はタオルを巻き直しながら、今夜の工程表を頭でめくっていた。この区画に鋭利なものを残す作業は無かったはず。安全月間の掲示は昨日張り替えたばかりで、ゴムキャップは色を指定した。赤。遠くで救急車のことを口にしようとして、口が動かないことに気づいた。先輩が震えた声を取り戻した。「せ、救急車……」。そこでやっと携帯を取り出した。指が汗で滑る。

救急隊の白い手袋が血を吸って色を変え、俺のタオルは彼らの手技の邪魔になった。搬送の手伝いで俺の膝は砕石で擦れて、じんわりと痛む。サイレンの音に、飯場の影から誰かの顔が一瞬出て、すぐに引っ込んだ。病院に着くまでの揺れの間、俺は彼の呼気の重さを数えていた。ひとつ減り、ひとつ増える。廊下の蛍光灯は白すぎて、夜を別の世界のものに見せた。

三〇分ほどで、医師は短く首を傾けて目を伏せた。失う音は無音に近い。待合のベンチは体温を奪う金属で、背を預けると汗が冷える。説明は理路整然としていた。人の血はおよそ五から六リットルで、四〇%を失えば心臓も脳も持たない。俺は数字が嫌いじゃない。数字は責任を整理するから。だがこの夜、その数字は粘つき、喉につかえた。

帰りの車内で、頭の片隅に古い話が浮かんだ。毒矢の喩え話。矢が刺さったとき、撃ったのは誰か、毒は何かを問うているうちに、兵は死ぬ。矢を抜け。まず止めろ。俺は頷いたつもりだったが、頷いた相手は誰だったのか、はっきりしない。懐中電灯の光は後席の天井で揺れ、俺の膝に白い楕円を作っては消えた。

翌朝、現場はいつもどおり回った。血の跡は水で薄められ、排水溝へ筋を引いていた。足場の角には俺の手の跡が粉っぽく残り、近くの鉄筋には赤いキャップがひとつ無くなっていた。拾って差し込んだ。柔らかい樹脂の感触が爪に引っかかる。日中は騒音が支配し、夜の記憶は簡単に遠のく。俺は矢を抜いたのだと、少しだけ自己説得する。

けれど、夜になると汗の匂いに混じって、別の匂いが戻ってくる。濡れた鉄の匂いは、乾く途中の血の匂いに似ている。先輩は「気持ちを切り替えろ」と言ったが、その声に力は無かった。飯場の入口にぶら下げた網戸が、夜風で九度ほど揺れて、止まる。また揺れる。揺れの回数を数え終わる前に、俺は別の音を聞いた。いびき。眠っている音。重く、苦しげに見えるが、現場では珍しくない。

秋に入って、空気が薄く冷えた日の午後、現場事務所に上がる階段で声がかかった。造作大工が倒れた。秋田からの人。名前を呼ぶ声は、階段の踊り場で散らばって、薄くなった。俺は先輩と走った。三階。パイプ椅子。男は目を閉じ、あごが少し上がっている。いびきにも似た音。肩は上下するが、目は開かない。俺は腕を取って揺すった。名前を呼ぶ。身体は重く、汗がシャツに染みて冷たい。

救急車を呼ぶ声が耳の遠くで響いた。俺はまた、何かをやりながら何かを考えていた。この人は酒を飲んでいないか。持病は。昼食は何を。問いは矢の毒の種類を数えているみたいで、目の前の矢は抜かれないまま。揺する腕に自分の力が移っていくのが怖かったが、やめられなかった。大人を起こすには強くしなければと、勘がずっと昔から言い張っている。

担架が来るまでの時間、天井の蛍光灯が微かにうなっていた。揺れた身体は椅子の金属音を出し、男の頭は二度ほど、背もたれに軽く当たった。俺は反射的に手を添えた。そこで、視線が触れた。通路に取り付けられた黒いレンズ。最近つけた防犯カメラ。録画の赤い点が、点いている。妙な寒気が背をなでた。何が冷えの原因なのか、その時はわからないまま手を離さなかった。

病院に着いたあと、医師は今度は「脳の血が破れた」と言った。脳溢血。動かすのはよくない、と短く付け加えられた。俺は喉の奥が焼けるのを感じた。焼けたのは恥か後悔か、それとも別の名のないものか。待合室の壁のポスターには、救急のあいうえおが貼ってある。息、意識、出血。順番は明瞭で、俺の手順はその順番と少しずれていた。

その夜、夢に彼らが来た。ひとりは腹に黒い布を巻き、もうひとりは目を閉じたまま椅子に座っている。ふたりとも、俺の懐中電灯を見ている気がした。光は丸い。視界に落ちるその円が、輪郭を奪い、足の位置を疑わせる。夢の中で、俺は懐中電灯のスイッチを切ろうとして、どこにもスイッチが無いことに気づいた。ただ光だけが俺の手の中にあった。

翌日、所長が呼んだ。防犯カメラの映像を見せると言う。画面の中の夜は青く、ノイズが雪のように降っている。飯場の前、俺のライトが丸く地面を舐め、鉄筋の縁で跳ね返る。ふっと光が眼に入る角度。画面の端から、男の影が現れ、手で目のあたりを庇いながら通路を渡ろうとする。足場板の端。俺の光が板の金具を白くする。その白が、彼の靴底を一瞬奪う。影が沈む。画面の雪が少し増え、飯場の影の形が変わる。

息が浅くなるのがわかった。映像は機械的で、公平で、嘘をつかない。俺は初めて見るはずの夜を見た。俺は善意の巡回をしていた。安全月間のための見回り。だが光は、暗さよりも残酷に、目から足の感覚を奪う。彼は光を避け、避ける動きで足を踏み外す。俺のライト。俺の手。毒矢の話が急に重たくなった。矢を抜く前に、俺は矢を作っていたのかもしれない。

さらに、三階の映像も見せられた。パイプ椅子。俺は男の肩を強く揺すっている。早く、起きろ、息をしろ。映像の俺は、善意で一杯だ。その善意が、彼の頭を二度ほど弾ませる。医師の言葉を重ねると、映像は別の意味を取りはじめた。動かすな。揺するな。俺は毒矢の喩えを知っていて、矢を抜くべきだと知っていた。だが俺の手は、矢の付近を無駄に抉っていた。

帰り道、手のひらに残る懐中電灯の輪郭が消えない。丸い跡が皮膚の下に沈みこみ、汗で浮かび上がる気がする。タオルを洗濯機に入れると、黒い筋が水にほどけた。排水口から、薄い赤が流れ出る幻を見た。風呂場の鏡に映る自分は、ヘルメットの跡だけがくっきりしていて、眼は深く沈んでいる。指を重ねて、押し込んだ場所を思い出す。柔らかさと、嫌に弾む硬さ。

現場は進む。型枠は外され、コンクリートは白い面を見せ、梁には次の鉄筋が組まれる。俺は所長に、巡回の報告を提出した。巡回経路、時刻、指摘事項。懐中電灯の型番。電池交換の頻度。所長は頷き、安全対策を強化すると言って、新しい投光器を追加した。影は短くなり、眩しさは増した。昼間でも、光で白く飛ぶ部分ができ、そこに人は足を置きたがる。白は安全に見える。錯覚は、現場でも起きる。

飯場の前を通るたび、あの日の映像の角度を探す。同じ場所、同じ手すり。手すりの塗装の欠けが、指の腹にざらつきを残す。そこに、細い黒い筋がまだうっすら残っている気がする。雨に薄められ、洗い流されたはずのもの。俺の指は、何も掴めないまま空を掻く。風が来て、網戸がまた揺れた。九度ほど揺れて、止まる。

夜、先輩が言う。「お前、気にしすぎだ」。俺は黙って頷いた。頷くことはもう、何の慰めにもならない。俺は毒矢の話を胸に置いたまま、矢の作り方のほうを覚えてしまった。矢羽の角度、軸の重さ、光の回り込み。現場という場所は、善意が思った以上に鋭利になる。柔らかいゴムキャップでさえ、油の膜を通して滑る。安全月間の掲示の赤文字は、夕暮れに黒く沈み、やがて誰の目にも触れなくなる。

数日後、所長は俺の肩を叩いた。「お前の巡回、効いてるぞ」。数字は改善していた。酔いどれは減り、飯場は静かだ。事故は記録上、無い。俺は軽く笑ってみせた。笑いは口元だけで、目は何も追っていない。所長は投光器をもう二台入れると言った。影を減らせ、と。俺は頷き、申請書の欄を埋めた。備考欄に、光の角度について一文を添えて、書いては消し、結局、空欄のまま提出した。

夜の見回りで、俺は懐中電灯を少しだけ手元に向ける癖がついた。足元だけを照らす。遠くを白く飛ばさない。だがそれは規定の巡回とは違う。防犯の観点からは、遠くまで光を通すべきだ。しかし、俺は知ってしまった。光は人を盲にする。だから、規定と実感の間で、光を揺らす。不意に、足場の影が濃くなる。濃い影は、暗くはっきりしていて、むしろ足を置きやすい。

あの二人は、夜ごと夢で同じ場所にいる。白い靴。パイプ椅子。俺は振り向けない。振り向いたとき、光がまた誰かの目に入る気がして、背中が固まる。夢の中でも、俺の手の中の光は消せない。スイッチは見つからない。光はただ、俺の手から出続ける。起き上がって台所に立つと、蛇口の水は金属の匂いがした。手の平から、それが水に移った気がする。錯覚だとわかっているが、拭っても取れない。

次の安全会議で、俺は「光の扱い」を議題に上げかけて、飲み込んだ。言葉は、映像の角度ほど説得力を持たない。俺は資料に新しい項目を作った。巡回時は、直視しない角度での照射。いびきにも似た呼吸には接触せず、体位を保ったまま救急要請。書きながら、指が震えた。机の木目が揺れて見えた。木の匂いがやけに甘く、鼻の奥が痺れた。

夜がまた来る。月は欠け、砕石は乾き、鉄は冷え、飯場の網戸はやはり揺れる。俺の光は小さく、足元だけを滑る。風が通り、ブルーシートが擦れる。遠くで猫の声が短く鳴る。俺は歩幅を狭め、結束線を拾い、ポケットの中で丸める。タオルは首にかけず、腰に差した。首に熱がこもるのを避けたい。小さな決まりを、自分で増やす。数字は改善している。報告書は整う。俺は整い続ける。

けれど、整えることが、あの夜の輪郭を薄めるのではない。むしろ逆だ。きれいに囲った現場ほど、薄い段差に足を取られる。白い投光器の下で、影はシャープに切り取られる。シャープな影は、実体よりも実体らしい。人はそこに足を置く。俺も置く。置きながら、あの映像の白を思い出す。白は安全の色だと誰が決めた。誰も決めていない。俺たちは勝手に決め、そこへ歩いた。

巡回の最後、飯場の前で立ち止まる。懐中電灯の光を消す。目が暗さに慣れていく間、鼻は湿気を吸い、耳は小さな音を拾う。遠くの道路のタイヤの擦れる音。冷蔵庫のコンプレッサーの唸り。鉄の熱が抜けるときの小さな鳴き。全部が整って、やがて、何も起きない夜がひとつ増える。何も起きない。それが安全月間の誇り。だが、何も起きなかったと報告するたび、報告書の白さが彼らの白い靴や白く飛んだ金具を呼び戻す。

俺はペンを置く。指に紙の粉がついて、爪の間が白くなる。白は削れた跡だ。消しゴムのカスのような白。俺はそれを集めて、丸めて、紙コップに落とす。カップの底で白は湿り、灰色に変わる。水道で流す。流れは、薄く、線になる。線は排水口へ消える。俺は水を止め、電気を落とし、最後に懐中電灯を机に置く。スイッチは、確かにここにある。なのに、手を離しても、光はしばらく輪郭を残した。目の裏に焼きついた輪。それが、俺の報告書の余白に、薄く重なって見える。

翌朝、所長は満足げに頷き、投光器の角度調整の業者が来るという。俺は作業の立ち会いに名前を書いた。手が止まる。備考欄の余白に、短く書く。「直視を避ける位置」。一度消す。また書く。今度は消さない。紙を渡す。所長はざっと目を通し、「いい」と言う。俺は返事をする。返事の声は静かで、自分に届くまで少し時間がかかった。

あの夜の二人の目が、俺の光を見ていたのは錯覚かもしれない。でも、錯覚は現場ではしばしば実になる。俺はそれを学んだ。光は物を浮き上がらせるが、同時に奪う。俺が整えた安全は、ふたりの呼吸を奪った側にも並ぶ。反転させて見ると、善意と手順の間は薄い紙一枚だった。俺はその紙をめくるたび、指先の粉で白を作る。白は安全の色じゃない。削れた跡の色だ。そう思い直して、俺は懐中電灯の角度を、ひと目盛りだけ下げた。

解説

この作品「光の角度」は、実際の建設現場を舞台にしながら、“善意と責任の境界”を描いた実録調怪談です。
物語の根底には「安全」という言葉の裏に潜む、人間の盲点と錯覚が据えられています。

舞台は、晩夏の夜の建設現場。照明を落とした空間の中、語り手である新米監督が懐中電灯一本で見回りを行う。その光は安全確認の象徴であり、職務への誠実さの証でもあります。しかし、物語が進むにつれて、その光自体が事故を誘発していた可能性が浮かび上がります。
「見える」ことが安全だと信じる一方で、強い光が“見えないもの”を作り出す──この構造が全編を貫いています。

作品の核心にあるのは、仏典の「毒矢の譬え」です。原因を問う前に矢を抜け、という教訓が、物語の中で皮肉に反転します。
語り手は矢を抜く側、つまり迅速に行動しようとする人間ですが、その行動こそが他者を死に導く。
彼の行為は正義でも怠慢でもなく、「正しいことをしよう」とした人間の本能的な反応です。
ゆえに読後に残るのは罪悪感ではなく、倫理の揺らぎそのものです。

光=安全、白=清浄、善意=救い──これらの社会的符号が、物語の最後にすべて裏返されます。
語り手は「報告書の白」を見つめながら、白が削れた跡の色であると気づく。ここで反転の構図が完成します。
安全月間という制度的正義の中で、人間が無意識に作り出す「光の暴力」。その気づきの瞬間が、怪異そのものよりも深く読者を刺すのです。

文体は徹底して現場の手触りに寄せています。
鉄の匂い、油の膜、ゴムキャップの質感、足場板の軋み。
恐怖は超自然的現象ではなく、手の中の道具や慣習から立ち上がる。
この現実的な密度が、読者の記憶の底に沈んだ「仕事の責任」という実感を呼び起こします。

最後の一文「懐中電灯の角度を、ひと目盛りだけ下げた」は、表層的には安全のための小さな修正ですが、物語全体では懺悔と祈りの象徴です。
語り手はもう夜を完全には照らさない。
自らの光の届かない闇を認めたうえで、闇の中に立ち戻っていく。
この静かな反転が、作品を怪談ではなく“現場の祈り”へと昇華させています。

本作は、幽霊の代わりに「手順」と「光」が人を殺すという構造を持つ、いわば“産業怪談”です。
そして、事故を通じて浮かび上がるのは、死ではなく「正しさの影」。
それは誰もが働く場所の片隅に、いつも潜んでいる。

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