平成の始め頃、俺はまだ小学一年生で、街の隅っこみたいなローカルな場所に住んでいた。
親父はスーパーの鮮魚店で働いていた。個人経営というには規模が大きくて、八百屋や肉屋なんかと一緒に、昔ながらの威勢のいい対面販売をやっていた。
親父が考えた刺身の盛り合わせセットがやたら売れた。松竹梅で値段を決めて、その日の仕入れに合わせて刺身を組み合わせるやつだ。二千五百円の松なんかは特に人気で、母まで店を手伝うことになったほどだった。
そんなわけで両親が家に帰るのはいつも夜八時過ぎ。ガキ一人の留守番は無理だろうってことで、スーパーのバックヤードに俺専用の机とテレビとスーファミが置かれた。学校が終われば家じゃなくスーパーに直行。それが日課になった。
秘密基地を与えられたみたいで、最初は浮かれたもんだ。ゲームやったり勉強したりして、わりとおとなしく過ごしていたけど、クソガキ根性がすぐに顔を出す。バックヤードに収まらず、気がつけば店内を徘徊するようになった。従業員も事情を知ってるから、特に咎められることもない。八百屋のオヤジの隣で売り子を真似したりして、後で怒られたのも今となってはいい思い出だ。
店内を観察するうちに常連客の顔ぶれも覚えた。若い主婦、寡黙なオヤジ、酒臭いじいさん……そういう人たちの中に、どうにも忘れられない存在がいた。
七十歳前後だろうか。顔の半分が溶け落ちたように崩れている婆さん。口の横に二センチほどの穴があって、瞬きと同じタイミングで閉じたり開いたりする。最初に見た時は声も出なかった。あの頃の俺は無神経なガキだったけど、それでも一瞬で言葉を失ったのをはっきり覚えている。
それでも慣れというのは恐ろしい。何度も見ているうちに、その婆さんが来ると怖いもの見たさでこっそり観察するようになった。あっちはあっちで、見られることに慣れているのか、特に嫌な顔もしない。そのうち会話まで交わすようになって、気づけば普通に話せる相手になっていた。
冬休みのことだ。
魚屋は冬が一番忙しい。両親に加えて親戚の叔母さんまで手伝いに来て、それでも夜十時過ぎまで帰れないことが続いた。子どもの俺は寂しくて、「今日は早く帰れる?一緒にごはん食べれる?」なんて聞いては「ごめんね、今日も遅くなる」とかわされる。いい子だから裏でゲームしてなさい――そんな毎日だった。
その時、例の婆さんが現れて、俺を手招きした。
「清助くん、たいくつならお婆ちゃんちに遊びにくるかい?」
軽い気持ちで「行く!」と返事をした。親にどう伝えたかは覚えていない。ただ、構ってくれる大人がいるというだけで胸が弾んでいたのは覚えている。
年の瀬で賑わう商店街を抜け、静かな住宅街にある一軒家へ。そこが婆さんの家だった。
中に入って驚いた。何もない。ちゃぶ台だけが置かれたがらんどうの部屋。婆さんは飲み物と菓子を出してくれたが、それ以外に家具らしいものは一切なかった。
「おばあちゃん、あのね……」
俺が切り出すと、婆さんは遮るように笑った。
「ああ、この顔のことだろ?」
「なんでわかったの!?」
「よく聞かれるからさ。昔、戦争があってね。爆弾をくらってこうなっちゃった。目も片方は潰れて見えなくなったけど、そのかわりに色んなものが見えるようになったんだよ。清助くんが寂しかったことも、わたしの顔に興味を持ってたこともね」
婆さんは声をひそめて言った。
「火事には気をつけるんだよ」
それからも長く話したはずだが、覚えているのはその言葉だけだった。
俺はご機嫌でスーパーに戻り、母に報告した。「ただいま!あの婆ちゃんちに行ってきた!」けれど母は「そんなのどうでもいい」と取り合わず、勉強かゲームしてろと一蹴した。
正月、家族と叔母さんとで鍋を囲んでいた時だ。コンロに繋がったガスホースに誰かが足を引っかけ、鍋がひっくり返ってガスが漏れ、炎が走った。バーナーのように火が吹き荒れ、焦げ臭さが広がった。幸い大事には至らなかったが、正月気分は一気に吹き飛んだ。
その時、婆さんの言葉が頭をよぎった。火事に気をつけろ――あれはこのことだったのか。
でも俺は黙っていた。母は俺の話なんてまともに聞かないだろうし、あの警告を知っていたなんて言えば余計に怒られる。
年が明け、初売りの日。俺は新しいソフトに夢中になりながら婆さんが来るのを待っていた。しかし来ない。翌日も、翌々日も現れない。待ちきれなくなって婆さんの家へ行ってみた。
そこは、もぬけの殻だった。
もともと家具らしいものが何もなかった家だから驚きは少なかったが、廃れた空気は異様に感じられた。長い間、人が住んでいなかったような寂れ方。
その後、婆さんの話を親にしようと思ったが、結局やめた。どうせ信じてもらえない。火事の件も合わせて、全部俺の中にしまい込むことにした。
数年後の盆休み、親戚が集まった時、ふと思い出して婆さんのことを話題にした。すると両親も叔母さんも口を揃えて言う。「そんな客は知らない」
あの顔を見たら誰だって忘れるはずがない。だが彼らは、最初から存在しなかったもののように否定した。俺はあの時初めて、背筋が凍った。
あの婆さんは何者だったのか。
今も答えは出ていない。
ひとつだけ決めたことがある。火事の件は、墓場まで持っていくつもりだ。
[出典:674 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/08/18(金) 07:18:41.36 ID:W6Su2EFy0.net]