自分の体験した話だ。誰にも語ったことがないし、これからも話すつもりはない。こんなことを書き残すのも初めてだ。
正直、この書き込みが最後になるかもしれない。それが何を意味しているか、自分でもよくわからない。ただ一つ言えるのは、話すべきではないことを語るような気がしているということだ。
少し現実味のない話になる。不気味で、長い。そして、すべてを正確に伝えるのは難しい。会話や情景の一部は記憶が曖昧で、ところどころ補完する必要がある。だが、話の流れ自体は本当だ。こんな非現実的な話を信じる人は少ないだろう。信じなくてもいいし、軽い気持ちで読んでくれればそれでいい。
これは大学三年生の春休みに起こった出来事だ。当時、僕は大学進学を機に中国地方のある県で一人暮らしをしていた。大学生の春休みはとても長い。今思い返しても、その時間の長さに途方に暮れた記憶がある。春休みが始まって一週間、既にやることが尽きてしまっていた。
住んでいた家の近くに小高い丘があった。そこは企業団地のような場所で、複数の会社が並んで建っていた。道幅が広く、景色も良さそうだったので、前から一度探索してみたいと思っていた。その日は特にやることもなく、運動がてらそこに行ってみることにした。
家を出たのは午後五時頃だったと思う。正確な時間は覚えていないが、夕暮れに差しかかる時間帯だったことだけは確かだ。実際に丘に行ってみると、予想以上に静かで、風景も美しい場所だった。なんとなく自転車を走らせながら、のんびりとその雰囲気を楽しんでいた。途中、石で作られた風車を見つけ、それを眺めたりもした。
帰り道をどうするか考えていると、丘を横断するようにもう一本道があるのを見つけた。登ってきた道とは反対側の道だ。「せっかくだから別の道から帰ろう」と、僕はその道を選ぶことにした。
しかし、その時、不思議な感覚にとらわれた。丘の主道から脇にそれる一本の小道が視界に入ったのだ。その小道に対し、なんとも説明し難い“違和感”のようなものを感じた。視界の隅でぼやけて揺らめくような感覚。色で例えるなら紫だった。
脇道に入るつもりはなかった。しかし、妙に引き寄せられる感覚に抗えず、気がつけば自転車のハンドルを切っていた。自分でも驚いた。体が勝手に動いたような感覚だった。
脇道に入ると、道は緩やかに下っていた。紫にぼやけていた視界は、坂を下りている間も変わらないままだった。不思議な感覚に戸惑いつつも、僕は自転車を漕ぎ続けた。時間にして一分も経たないくらいだったと思う。坂を下りきった瞬間、紫色のぼやけた視界は突然クリアになり、目の前に広がる景色が鮮明に飛び込んできた。
そこには一面の田んぼが広がっていた。向こうの方には藁葺き屋根の家が密集している村が見えた。その村の中ほどには、少し高くなっている丘のような場所もあった。突然現れた光景に驚きながらも、僕は「面白そうな場所だ」と思い、田んぼの間を通るあぜ道を自転車で進み始めた。
この時点ではまだ、先に進めばどこか大きな道に出られるだろうと考えていた。そこから西の方角へ進めば、知っている道に戻れると楽観していたのだ。
あぜ道を進んでいると、少し遠くで農作業をしているお婆さんの姿が見えた。そのお婆さんはこちらに気づくと、急にこちらへ向かって走ってきた。僕は「何かあるのだろうか」「もしかして、ここは田んぼの持ち主の土地で勝手に入ったらまずいのか?」と考えながら、自転車を降りてお婆さんを待った。
お婆さんは息を切らせながら僕の近くに来ると、挨拶をしようとする僕の声を遮り、「あんた、この辺で見ん顔じゃけど余所者かい?」と問い詰めるように言った。その口調に圧倒されながらも、僕は「いえ、ここの近くに住んでいます」と答えた。
だが、お婆さんはさらに強い口調で、「この村に住んどるんかどうか聞いとるんじゃ」と言い放った。僕はこの村には住んでいないが、近くに住んでいることを説明し、自転車で偶然ここにたどり着いたことを話した。
すると、お婆さんの態度は一変し、優しい声で「自分の家に来て晩飯を食べていけ」と誘ってきた。しかし、帰り道がわからない僕はできるだけ明るいうちに帰りたかったため、その申し出を断った。お婆さんは何度も食い下がってきたが、最後には諦めたようで、農作業の道具をそのままに、民家の方向へと走り去っていった。
お婆さんと別れた僕は、自転車に乗り、家に帰ろうと再び漕ぎ出した。しかし、村の周囲は山に囲まれており、どの方角にも村から抜ける道が見当たらなかった。仕方なく、来た道、つまり紫色にぼやけていた坂道を戻ることにした。坂を登れば、再び企業団地に戻れるだろうと考えたのだ。
再び坂の下に到着し、自転車を漕いで坂を登り始めた。だが、この時から奇妙なことが起き始めた。登れども登れども坂の終わりが見えない。来るときにはあっという間に通り抜けた道だったのに、同じ道を進んでいるはずなのに、終点にたどり着かないのだ。
どれだけ時間が経ったのかわからない。周囲がだんだん暗くなり始め、心細さが増していった。携帯電話を取り出して時間を確認しようとしたが、電源が切れているのか、画面は暗いままだった。何度か電源ボタンを押してみたが反応はなく、充電が切れてしまったようだった。
不安が募った僕は、このままでは埒が明かないと思い、再び坂を下ることにした。しかし、坂を下り始めると、登るのにどれだけ時間がかかったのかが嘘のように、あっという間に坂の下にたどり着いてしまった。この時、初めて本格的な悪寒を覚えた。
周囲は既に闇に包まれていた。暗闇の中、自転車を押しながらあぜ道を進むことにした。しばらく歩くと、視界の中に無数の明かりと人影が現れた。その明かりは松明だった。21世紀の現代に松明。異様な光景に動揺を覚えながらも、何かの集まりだろうと思い近づいていった。
進むにつれて、村人たちが松明を掲げて集まっている様子がはっきり見えるようになった。彼らの話し声が聞こえてきたが、その内容ははっきりとは聞き取れなかった。不気味さが増す中、突然、頭の中で「これはやばい」という警鐘が鳴った。僕はあぜ道から田んぼの脇に身を伏せ、自転車を田んぼの中に隠した。
そこで、さらに異様な事実に気づいた。田んぼには稲が植えられ、大きく成長していた。しかし、この時期は春のはずだ。稲作の季節ではない。春に稲が実っているという矛盾が、さらに不安感を煽った。
村人たちは松明を持ったまま散り散りに動き出した。東へ、西へ、あるいは住宅地の丘の方向へ。それぞれが異なる方向に向かう中、一部の明かりがこちらに向かってきた。僕は息を殺しながら、水路に移動し、水に濡れるのも構わず身を隠した。
やがて足音が近づき、村人たちの会話が聞こえてきた。
「久しぶりの入り者だな」
「そうだな。この時期に間に合って本当に良かった」
「まずは門を探せ。入口はそこだけだ。見つからなくても、この村は狭い。そのうち捕まえられるだろう」
彼らの会話を聞いた瞬間、僕は完全に悟った。この村に迷い込んだ余所者――僕が、彼らにとって“お尋ね者”であることを。彼らは明らかに僕を探しているのだった。
僕は一刻も早くこの村から抜け出さなければならなかった。だが、出口がどこにあるのか見当もつかない。自転車は田んぼに放置し、フットワークを軽くして田んぼの間をしゃがむように移動した。山を越えてでも村を脱出するしかない、そう考えていた。
しかし、村人たちの数が想像以上に多く、思うように動けなかった。彼らの松明の明かりは徐々に近づいてきていた。やがて限界に達し、僕は立ち上がり、とにかく松明のない方向へ全力で走り出した。
その瞬間、村人たちは一斉にこちらを追い始めた。暗闇の中、足元の悪い道を全力で走る僕に対し、松明を持った大勢の村人が迫ってくる。追い詰められる感覚の中、僕は結局捕らえられた。全身を縛られ、目隠しと猿轡をされた僕は、村人たちにどこかへと連れて行かれた。
村人たちに連れて行かれる道中、彼らは落ち着いた口調で会話を交わしていた。
「今年は俺らが出さなくて済みそうだな」
「去年は酷かったが、今年はこれで○○様も満足だろう」
“○○様”という名前だけはどうしても思い出せない。何度記憶を掘り返しても、その部分だけが曖昧で霞んでいる。だが、彼らの会話から推測するに、この村では毎年誰かを“差し出す”必要があるらしかった。
どれくらい歩かされたのかはわからない。目隠しをされ、猿轡をはめられたまま、四角く狭い部屋に閉じ込められた。手足も縛られていたため、身動きが取れない状態だった。そこからしばらくの間、僕は完全に孤立した。水と少量の食べ物を与えられる以外、誰も部屋には入ってこない。時間の感覚もなく、僕はただ恐怖に震えていた。
事態が動いたのは、ある日、いつものように食料を渡された後だった。村人が部屋を出て行った直後、再び誰かが部屋の中に入ってきた。最初は村人が何か忘れ物でもしたのかと思った。だが、その人物は今までの村人たちとは全く違う態度を取った。
目隠しを外され、猿轡を取られた。光が目に差し込み、しばらくの間は何も見えなかった。目やにや涙で視界がぼやけ、やっと目を開けることができるようになるまで、かなりの時間がかかった。そして目の前に現れたのは、一人の少年だった。
少年は優しい眼差しで僕を見つめ、水を差し出してきた。「大丈夫?」という短い言葉が耳に届く。その瞬間、僕の中に張り詰めていた恐怖の糸が少し緩んだ。無我夢中で差し出された水を飲み干し、ようやくまともに話ができる状態になった。
少年は僕に語り始めた。この村がどのような場所なのか、そして、僕がどんな状況にあるのかを。
少年の話によれば、この村は僕たちが住む世界とは異なる場所に存在しているらしい。普段は外部との繋がりが全くないが、まれに“何か”のきっかけで繋がることがあるという。そして、迷い込んだ人間がいると、村はそれを逃さない。今回、その“迷い込んだ者”が僕だった。
さらに少年は、この村の背後にある恐ろしい仕組みを説明してくれた。この村には“○○様”という神が祀られている。村人たちはその神を崇拝し、毎年生贄を捧げることで災いを避けているのだという。過去には、生贄を捧げなかったことで大飢饉や疫病が起こり、多くの村人が命を落とした。以来、彼らは毎年欠かさず生贄を差し出すようになったそうだ。
通常は村の中から生贄を出すが、今回のように“外部”から迷い込んだ人間がいる場合、優先的にその者を生贄とする。それが、この村の掟だった。
そして、僕は3日後にその生贄として差し出される運命にあると少年は語った。
話を聞いている間、僕はただ呆然としていた。あまりにも非現実的でありながら、これまでの出来事を考えれば否定することもできなかった。少年の話を聞き終えた時、僕は完全に投げやりな気持ちになっていた。「もうどうにでもなれ」という思いが支配していた。
そんな僕を見て、少年は静かに言った。「でも、まだ逃げられる。元の場所に戻れる方法がある」と。
少年によれば、彼には“特別な力”があるらしい。ごく短い時間だけ、村と元の世界を繋げることができるというのだ。少年は「本当はこんなことを誰にも知られてはいけないし、もしこれがばれたら僕が生贄にされる」と言った。それでも、少年は僕を救うつもりでいるらしかった。
少年は僕に、あの坂道に向かうよう指示を出した。そこが、僕がこの村に入った入口であり、唯一の出口でもあると言う。そして、「とにかく早く逃げて」と促されるまま、小屋を出た僕は少年に教えられた道を進んだ。
最後の逃走は拍子抜けするほどあっけなかった。誰にも見つかることなく、ただ黙々と坂を登っていくと、目の前に見慣れた企業団地の景色が広がっていた。その瞬間、僕は「戻ってきたのだ」と実感した。
家に帰り、泥のように眠りに落ちた。次に目を覚ました時、既に一週間以上が経過していた。部活の同級生から大量の着信履歴やメールが残されており、全身が痛むことからも、ただの夢ではなかったと確信した。
記憶はその後、徐々に薄れていった。あの村での出来事も、少年の顔も、次第に忘れていった。しかし、数年後、ある夢をきっかけにすべてが蘇った。夢の中に、あの少年が現れたのだ。
少年は何かを訴えるような弱々しい瞳でこちらを見つめていた。その夢を見て以来、僕は彼のことを思い出し、同時に後輩が企業団地でのバイトをきっかけに失踪したことを知った。その後輩も、あの村に迷い込んだのではないかと直感した。
少年が助けを求めている――僕にはそう思えてならない。そして、再びあの村へ行く決意をした。今度は僕が、少年を助ける番なのかもしれない。そう思いながら、僕は企業団地の道へ向かった。
そこで物語は幕を閉じる。少年の運命、村の真実、すべては霧の中だが、一つだけ確かなことがある。あの道に入る者は、決して戻ってこないかもしれない。
(了)
[出典:1: 名無しさん 2014/04/17(木)00:39:54 ID:nAyBccxrT]