俺が生まれ育った集落には、子供に二つの名を持たせる風習があった。
ひとつは戸籍に載る名で、もうひとつは家の中だけで教えられる名だった。普段は決して口にしない。その名を呼ぶのは、親か、祖父母か、どうしても必要なときだけだ。
必要なときというのは決まっていた。
裏山で、誰もいないのに「名のりなさい」と聞こえたときだ。
そのとき本当の名を答えるな。黙ってもいけない。必ず、もうひとつの名で返せ。そう教え込まれて育った。幼い頃は泣かされるほど何度も言い聞かされたし、ふざけて本名を口にすると祖母に平手で叩かれた。
なぜそこまで厳しいのかと聞いても、大人たちは同じことしか言わなかった。
「昔からの決まりだ」
裏山の中腹には岩屋がある。大きな岩がせり出して、口を半分ふさいだような形の穴だ。入口は狭いが、中は思ったより奥まで続いている。夏でも薄暗く、外の光が少し入るだけで、奥は昼でも夜みたいだった。
岩屋のいちばん奥には小さな棚が据えられていて、そこに火を入れ、米や塩や酒を供える当番が回っていた。もう何を祀っているのか、誰もはっきりとは言わない。ただ、絶やすなとだけ言われていた。
あの山では、名を聞かれる。
そう言われていた。
声は風に混じって聞こえることもあるし、すぐ後ろから囁かれることもある。振り返っても誰もいない。けれど、聞いた者にはわかるらしい。ただの聞き間違いではないと。聞かれたのだと。
子供の頃の俺は、半分は本気で怖がり、半分は作り話だと思っていた。山菜採りにも行ったし、友達と岩屋の近くまで行ったこともある。一度もそんな声を聞いたことがなかったからだ。
四年生の夏の終わりだった。
同級生の健太と二人で、裏山に入った。蝉の声がうるさいくらいの夕方で、暗くなる前には戻るつもりだった。沢沿いを少し登って、岩屋の見えるあたりまで行き、そこで引き返そうとした。
そのとき、急に風が止んだ。
葉擦れも消えて、蝉まで鳴きやんだ。音が全部、どこかへ引いたみたいだった。
それから聞こえた。
「名のりなさい」
女とも男ともつかない声だった。近いのに遠く、囁いているのに耳の奥へ直接入ってくるような声だった。
俺は振り返った。健太も同じように振り返っていた。あいつの顔を見た瞬間、あいつにも聞こえたのだとわかった。
「おい」
そう言おうとしたが、喉が固まって声が出なかった。
もうひとつの名を言わなければならない。そう思った。なのに、出てこない。小さい頃に何度も聞かされたはずなのに、そこだけぽっかり抜け落ちていた。
「おまえ、早く」
健太がそう言ったのかと思った。だが、口は動いていなかった。
もう一度、声がした。
「名のりなさい」
今度は、俺に向けられたのか、健太に向けられたのかわからなかった。
健太が震えながら口を開いた。聞き取れないほど小さな声だったが、確かに何かを答えた。
その瞬間、風が戻った。
木が一斉に鳴って、蝉がまた鳴き出した。俺たちは顔を見合わせることもせず、転ぶみたいに山を駆け下りた。
その夜、健太の祖父が死んだ。
畑で倒れていたのを近所の人が見つけた。昼まで普通に話していたらしい。持病もなく、寝込んだこともない人だった。通夜の席で、健太はひどく静かで、俺とは目を合わせなかった。
翌日、母親にあのことを話した。
母は最後まで口を挟まずに聞いて、それから俺の頬をつねるみたいに強く掴んだ。
「忘れたの」
何を、と聞く前に、母は離れの仏間へ俺を引っ張っていった。仏壇の下の引き出しから古い紙切れを出し、俺にだけ見せた。そこには墨で、見慣れない二文字が書かれていた。
俺の烏名だった。
見た瞬間に思い出した。思い出したのに、その場でまた口にできなくなった。母は紙をすぐ火皿で燃やしてしまった。
「あんた、自分が答えなかったのに、何で戻ってきたと思う」
母はそう言って、それきり黙った。
そのあとしばらくして、健太の家は村を出た。祖父の死がきっかけだったのか、もともと決まっていたのかは知らない。健太とはそれきりだ。別れ際に一度だけ目が合ったが、あいつは口を開かなかった。
俺も何も言えなかった。
ただ、あいつが俺の顔ではなく、喉のあたりを見ていたのを覚えている。
それからだ。
家で鶏が一羽、首を折ったみたいに死んだ。祖母が階段から落ちた。父が山で鎌を失くしたと言って、夜更けに一人で探しに行こうとした。母が泣きながら止めた。誰も理由を口にしないのに、家の中だけが妙に静かになった。
月が変わる頃、岩屋の当番がうちに回ってきた。
本当なら父が行くはずだったが、母が「この子を連れていく」と言った。夜の山道を、提灯ひとつで登った。岩屋の入口まで来ると、母は俺を先に入らせた。
中は土と湿った石の匂いがした。奥の棚には新しい供え物が並んでいて、その手前の地面に、煤けた木札が何枚も伏せてあった。
母が火を入れながら言った。
「呼ばれたら、答えるのは一人でいい」
その意味が、そのときはわからなかった。
岩屋の奥で、火が小さく鳴った。
すると、すぐ後ろで声がした。
「名のりなさい」
今度ははっきり、俺に向けて言われた。
逃げようと思った。けれど母が後ろから肩を掴んでいた。振りほどけなかった。俺は泣きながら、思い出したばかりのその名を言った。
すると、すぐ横で母が息を呑んだ。
火が揺れた。
それだけだった。
山を下りるまで、母は何も話さなかった。家に着くころには、いつもの顔をしていた。それから二度と、その話はしなかった。
翌朝、祖母が死んでいた。
布団の中で、目を開けたまま死んでいた。苦しんだ様子はなかったという。村の年寄りはみな静かだった。驚いているようで、何もかも知っているようでもあった。
そのとき、やっとわかった。
あれは答えれば助かるものじゃない。
呼ばれた者が答えれば、すぐそばの誰かが減る。答えなければ、やはり近しい誰かが減る。ただ、それだけだ。だから家ごとに、子供へもうひとつ名を持たせる。呼ばれたとき、誰を出すのか迷わないように。
村を出て何十年も経つ。山は整備され、岩屋の前まで細い舗装路が通ったと聞いた。当番も今はどうなっているのかわからない。若い者は減り、古いことを知る者もほとんどいないはずだ。
けれど、夢を見る。
暗い岩屋の奥で、小さな火が燃えている。誰かが供えた米と塩が乾ききって、ひび割れている。そこで必ず聞こえる。
「名のりなさい」
昔はそのたびに目が覚めた。
だが最近は違う。夢の中で、俺は答えようとしている。喉まで出かかったその名を、ぎりぎりで飲み込んで目を覚ます。横で寝ている妻の息を確認し、離れた部屋の子供の寝返りの音を聞いて、朝まで眠れなくなる。
書けば少しは軽くなるかと思った。
ならなかった。
さっきから、ずっと気になっている。この部屋、こんなに静かだったか。
窓は閉まっているのに、ときどき山の匂いがする。
それに、書きながら何度も思い出しかけた。あの二文字を。母が燃やしたはずの、俺の烏名を。
もし最後まで思い出したら、ここで書くつもりはなかった。誰にも見せないまま消すつもりだった。なのに、もう遅い気がする。
ここまで読んだなら、わかるだろう。
あの声は、山の中だけで聞こえるわけじゃない。
呼ばれた者が答えれば、その場にいる誰かが減る。呼ばれた者が答えられなくても、やはり近しい誰かが減る。だったら、いちばん遠くにいる誰かに読ませればいい。昔の連中がその考えに辿り着かなかったとは思えない。
だから、昔から本当は、口で答える必要なんかなかったのかもしれない。
名は、呼ばせればいい。
今、耳の奥で聞こえている。
さっきから一度も止んでいない。
「名のりなさい」
[出典:401 本当にあった怖い名無し 2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:0zPZzsmW0]