俺が生まれ育った土地には、他所の人には信じがたいような風習が残っていた。
今はもう市の一部に組み込まれて、ただの山あいの集落に見えるだろうけれど、子供の頃の俺にとっては、そこは常に何かに見張られているような場所だった。
山は裏手にひとつあるだけだ。標高もせいぜい六百メートルほどで、いわゆる里山というやつだ。けれど、その山の中腹にある岩屋を思い出すと、いまだに胸の奥に重しを載せられたような気持ちになる。
大きな岩がひさしのように突き出していて、入り口は身をかがめないと通れない。奥は七、八メートルほどもあるのに、入口が狭いため昼でも薄暗い。まるで人を拒むように閉ざされ、けれど中に入った者は容易に外へ戻れないような形をしていた。
言い伝えでは、そこに昔、謀反の疑いをかけられた皇子が侍従と共に逃げ込み、暮らしていたのだという。奈良時代よりもさらに古い頃だと語られていたが、誰も正確なことは知らない。
村ではその岩屋の奥に小さな神棚を置き、俺が幼い頃までは月ごとに当番を決め、火を入れ、供え物をしていた。老人たちは「祟りを鎮めるためだ」とは言わず、ただ「昔からの決まりだから」としか教えてくれなかった。
村の風習で、もっと奇妙なのは名前のことだった。
この土地では子供が生まれると、必ず二つの名前を与えられる。俺も例外じゃない。戸籍に載る本当の名とは別に、もう一つの名を持たされる。俺たちはそれを烏名(からすな)と呼んでいた。
「捨丸」とか「棄助」といった仮の名を付けて、病魔から逃れるように後で改名する風習は聞いたことがあるかもしれない。けれど烏名はそういうものとは違う。生まれたときから、最初から、二つの名前を持つのだ。
三歳を過ぎる頃になると、親は子供に烏名を教える。普段は口にしないその名を、どうしても必要なときにだけ使う。
必要なとき――それは、裏山の近くで「名を名のれ」と声をかけられたときだとされていた。
声は風に乗って、不意に耳へ滑り込む。目の前には誰もいないのに、背後から、あるいは頭の中に響くように聞こえるのだと。
そのときに本名を答えてしまえば、たちまち神隠しに遭う。どこかへ連れ去られ、二度と戻ってこられない。
けれど、沈黙したままでいるのも危険だ。答えなければ、近しい誰か――弟や妹、あるいは祖父母が、日を置かずに命を落とすと信じられていた。
だからこそ、烏名が必要なのだ。呼ばれたら、必ず烏名で答えろ。子供たちはそうやって厳しくしつけられた。
その声を発しているのは、あの落ち延びた皇子と侍従の迷った魂だ、と言われている。
俺は村にいた十二年間、裏山には幾度も足を踏み入れた。親の手伝いで山菜を取りに行ったり、同級生と探検ごっこをしたりもした。だが、一度たりとも声を聞いたことはない。神隠しの噂も耳にしたことはなかった。
だから俺は、心のどこかで「ただの迷信だ」と思っていた。実際、俺の烏名なんてもう忘れてしまいたいくらいだ。けれど、どうしても忘れられない夜がある。
小学校の四年生の頃だった。夏の終わり、同級生の健太と二人で裏山に登った。夕方近くなって、そろそろ戻ろうとしたとき、妙に風が止んだ。葉擦れの音も消え、あたりが息を潜めたように静かになった。
そのとき、耳に届いた。
「名のりなさい」
囁くようで、けれどはっきりした声だった。振り返っても健太しかいない。健太は目を丸くして、俺を見返していた。つまり、あいつも同じ声を聞いていたのだ。
俺は慌てて口を開いた。けれど、烏名が喉につかえて出てこない。思い出せないのだ。
小さい頃に確かに親から教えられたはずなのに、どうしても頭に浮かんでこなかった。
焦っていると、横にいた健太が震える声で、自分の烏名を答えた。
その瞬間、風が戻ってきた。梢がざわめき、セミが鳴き出した。俺たちは何も言わず、駆けるように山を降りた。
その晩、健太の祖父が急に亡くなった。畑で倒れていたのを近所の人が見つけたらしい。病気の兆しもなく、普段は元気だったと聞く。
俺は悟った。
声は本当だった。烏名も、神隠しも。
だが、なぜ俺は助かったのか。俺は何も答えられなかったのに。
健太が答えたから、代わりに持っていかれたのだろうか。あの晩からずっと、その疑問が頭から離れない。
村を出て、もう何十年も経つ。今ではあの村も過疎で、世帯数は半分以下に減ったと聞く。
けれど、時折夢に見るのだ。あの岩屋の闇。奥で燻ぶる火と、乾いた供物。
夢の中で必ず聞かれる。
「名のりなさい」
俺は声を振り払おうとしても、何も言えない。喉が塞がり、烏名が出てこない。
それでも夢から覚めると、不思議と家族は皆無事でいる。
まるで、まだ順番を待たれているだけのように。
俺が口にすべき名を、ただじっと待たれているように。
今ここで、俺は書こうとした。けれどやはり手が止まる。烏名は、誰にも明かしてはならない。
なぜなら、俺がそれを口にした瞬間、誰かの息が途切れるだろうと分かっているからだ。
次はきっと、俺自身かもしれない。
だから、この話はここで終わる。
けれど今も耳の奥で、あの声が囁いている。
「名のりなさい」
[出典:401 本当にあった怖い名無し 2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:0zPZzsmW0]