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中編 r+ 洒落にならない怖い話

順番があるだけだ rw+3,636-0327

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彼と最初に会ったのは高校二年の春だった。

同じクラスの中でも、あまり目立たない者同士だった。騒ぐ連中の輪には入らず、昼休みも端の席で本を読んだり、窓の外を眺めたりしているような人間だったから、仲良くなるまでに時間はかからなかった。大学もたまたま同じ地域の学校を選び、受験が終わってからは、これでしばらく関係は続くなと、疑いもなく思っていた。

実際、大学に入ってからもしばらくはそうだった。

講義の合間に学食へ行き、帰りに安い定食屋へ寄って、どちらからともなく相手の部屋に上がる。話す内容も、高校時代の延長みたいなものばかりだった。単位のこと。バイトのこと。先のことは何も決まっていないのに、決まっていないまま過ぎていく毎日のこと。

それが一年の秋口に入ったあたりから、彼は急に変わった。

服装が妙に整い始めた。髪も伸ばしっぱなしではなくなり、今まで見たことのない色のシャツを着るようになった。何より、誰にでも話しかけるようになった。学部の違う連中と笑いながら歩いていたり、サークル棟の前で見知らぬ学生たちに囲まれていたりするのを、何度も見かけた。

最初は、ただ大学に馴染んだのだと思った。そういう変化もあるのだろうと。

だが、彼の顔つきは、明るくなったというより、どこか急いでいるように見えた。落ち着きがなく、誰かに見られている人間が、見られていないふりをして笑っているような、不自然さがあった。

ある日、学食で向かい合って座ったとき、軽い調子で訊いた。

「彼女でもできたのか。」

彼は箸を止めて、少しだけ笑った。

「違う。」

それだけだった。

「じゃあ、何なんだよ。」

そう言うと、彼は一瞬だけ周囲を見た。癖で視線を流したというより、誰かを探したような目つきだった。そのあとで、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。

「今のうちに、少しでも顔を広くしておいたほうがいいんだ。」

意味が分からず聞き返したが、彼はもうその話をしなかった。

それからは、前より会う回数が減った。まったく疎遠になったわけではない。連絡を入れれば返事は来たし、たまには一緒に飯も食った。ただ、一人でいる彼を見ることがなくなった。いつも誰かがいた。男のこともあれば女のこともあったが、友人という雰囲気ではない連中も混じっていた。年齢の離れた大人が一緒にいるのを見たこともある。

冬に入るころには、学内で彼のことを知らない人間のほうが少ないように思えた。

そのくせ、近くで話すと、彼は前よりずっと遠くなっていた。

会話の途中でふっと黙ることが増えた。こちらの背後に視線を向けることもあった。自分で口にしたことを、あとから訂正するような場面もあった。妙なのは、酔ってもいないのに、時々ひどく声が小さくなることだった。

一度だけ、彼の部屋で酒を飲んだとき、帰り際に玄関まで見送ってきた彼が、鍵を閉める前に言ったことがある。

「もし、誰かが俺のことを聞いてきても、知らないって言ってくれ。」

冗談かと思って笑ったが、彼は笑わなかった。

「誰が。」

そう聞くと、彼は少し考えるような顔をしてから、曖昧に首を振った。

「誰でも。」

春休みが終わって二年になり、講義の組み方も変わると、会う機会はさらに減った。

その頃には、彼のまわりにいる人間の顔ぶれもだいぶ変わっていた。以前つるんでいた連中がいなくなり、別の連中が増えた。その繰り返しだった。よく見ると、彼のほうから誰かに近づくことは多いのに、同じ相手と長く一緒にいることはほとんどなかった。

何かに追われて、次々と別の人間に触れていくみたいな動き方だった。

そして、六月の終わりに、彼はいなくなった。

最初の一週間は、体調でも崩したのだろうと思っていた。二週間目に入っても講義に来ず、電話も繋がらず、メッセージにも既読がつかなくなったところで、部屋まで行った。

アパートは大学から少し離れた場所にあった。いつ行ってもカーテンが閉まっていて、生活音の少ない部屋だったから、その日も最初は変化が分からなかった。だが、何度インターホンを鳴らしても反応がない。ドアノブを回すと鍵がかかっていた。

郵便受けに古いチラシが何枚か詰まっていた。嫌な感じがして、手で押し分けて隙間から中を覗いた。

家具がなくなっていた。

床も壁もむき出しで、よく見慣れたはずの部屋が、ひどく広く見えた。冷蔵庫も本棚もベッドもない。何もかも運び出されたあとだった。

ただ、部屋の真ん中にだけ、小さなものが置かれていた。

人の形に見えた。

土か木で作られたような、荒い表面の像だった。背丈は三十センチもないくらいだったと思う。顔はつぶれていて、目の位置だけが深くえぐれていた。こちらを見ているのかどうかも分からないのに、覗いた瞬間、息が止まった。

そのまま管理人に話を聞きに行くと、数日前に引っ越したと言われた。

業者のトラックは来ていない。夜に数人で荷物を運び出していたらしい。友達か親戚かと思ったが、みんな帽子を深くかぶっていて、顔はよく見えなかったという。

彼の実家にも連絡した。

母親は驚いていた。引っ越しの話は聞いていないらしかった。しばらくして父親も電話口に出たが、反応は同じだった。こちらから事情を説明しても、二人とも黙るばかりで、最後に母親が、「最近、あの子、変なことを言っていませんでしたか」と聞いた。

何のことですかと訊き返したが、その質問には答えず、「もし連絡があったら教えてください」と言われて電話は切れた。

それから三週間ほどして、彼から電話がきた。

深夜だった。

知らない番号で、出るか迷ったが、切れる直前に取った。受話器の向こうは静かで、最初の数秒は誰もいないのかと思った。そのあと、ひどく掠れた声がした。

「ごめんな。」

彼だった。

「お前のことを、あいつらに知らせてしまった。」

聞き間違いかと思った。

「何だよ、どこにいるんだ。」

そう言うと、彼は何も答えず、ただ同じことを繰り返した。

「ごめんな。ごめん。お前のことを、知らせてしまった。」

背後で風の音のようなものがしていた。屋外にいるのかと思ったが、それにしては妙だった。一定の間隔で、何か大きなものが止まり、また動き出すような音が混じっていた。

「誰に。」

それを聞いたときだけ、彼は少し黙った。

そして、小さな声で言った。

「迎えが来る。」

通話はそこで切れた。

翌日、大学の事務から、彼が退学したと知らされた。理由は一身上の都合としか言われなかった。実家に電話をすると、父親が出て、「海外へ行くそうだ」とだけ言った。ボランティア活動だとも言っていたが、その声は、そう信じている人間の声ではなかった。

その後、彼のことは途絶えた。

何度か、あの部屋で見た像のことを思い出した。調べようと思えば調べられたのかもしれないが、結局しなかった。調べることで、こちらから手を伸ばすことになる気がした。

何年か経った。

就職して、辞めて、また別の仕事に就いた。生活は安定しなかったが、それでも彼のことを四六時中考えるようなことはなくなっていた。思い出すのは、寝つきの悪い夜か、バス停で人を待っているときくらいだった。

その手紙が届いたのは、秋の終わりだった。

差出人はなかった。封筒は市販の無地で、こちらの住所と名前だけが黒いボールペンで書かれていた。中には便箋が一枚だけ入っていた。

施設の名前と住所。彼の名前。

それだけだった。

しばらく机の上に置いたままにしていたが、捨てることができなかった。誰が送ったのかは分からない。だが、知らなくていいことをわざわざ知らせるような書き方ではなかった。行け、と言われている気がした。

週末に、その場所へ向かった。

山の中腹にある療養施設だった。駅からバスでかなり揺られ、最後は本数の少ない道を歩いた。古い施設を想像していたが、建物は思ったより新しく、門も開いていた。敷地は広く、芝生の手入れもされていた。どこか拍子抜けするほど、明るい場所だった。

門の脇に警備員が一人いたので、面会したい人間がいると伝えると、名前を聞かれただけで通された。

そのとき、敷地の端に目が行った。

バス停があった。

屋根つきの小さな停留所で、丸い時刻表の板まで立っている。こんな山の上に路線バスが入ってくるとは思えず、まずそれが奇妙だった。そのベンチに、三人の老人が座っていた。

誰も喋っていない。三人とも正面を向いていた。待っている姿勢だけがそこにあった。

気になったが、先に建物へ入った。

受付で彼の名前を告げると、若い職員が部屋番号を教えてくれた。拍子抜けするほど簡単だった。通路を歩くあいだ、何人もの入所者とすれ違った。老人ばかりだった。車椅子の者もいれば、壁に手をついて立ち止まっている者もいた。だが、どこかおかしかった。

みな、外を気にしていた。

窓の位置を通るたび、目だけがそちらへ動く。話しかけても返事をせず、ガラスの向こうを見ている者もいた。

案内された大部屋の扉をノックすると、返事はなかった。少し開けると、窓際に立つ背中が見えた。

彼だった。

名前を呼ぶ前に、違和感が来た。

背中が老人のものだった。

痩せていた。肩が落ち、首の後ろに深い皺が寄っていた。髪は白くはないが、色が抜けたように薄く、地肌が透けていた。立っているだけなのに、体の重みをどう支えているのか分からないような、不安定な姿だった。

部屋に入って近づくと、彼は窓の外に向かって何かを繰り返していた。

「ごめんな。ごめんな。お前のことを、あいつらに知らせてしまった。」

あの夜の電話と同じ声だった。ただ、もっと乾いていて、長いあいだ使われていなかった口を、無理に開いて音にしているみたいだった。

「俺だ。」

そう言うと、彼の肩がわずかに動いた。

だが振り返らない。

窓の外を見ると、例のバス停が見えた。老人は四人に増えていた。いつの間にか一人来ていたのかと思ったが、誰が増えたのか分からなかった。全員、同じ向きに座っているからだった。

「久しぶりだ。」

声をかけても、彼は同じ言葉を繰り返した。

ごめんな。知らせてしまった。

その合間に、別の言葉が混じった。

「でも、もう大丈夫だ。」

何が大丈夫なのか分からず、聞き返そうとしたとき、彼が不意に振り向いた。

目が合った。

老けた顔だった。皮膚がたるみ、頬がこけているのに、目だけが昔のままだった。高校の教室で窓際に座っていたときと同じ目だった。

彼はしばらくこちらを見ていたが、やがて窓の外に顎を向けた。

「哀れだと思ってるだろ。」

返事ができなかった。

バス停の老人たちは、誰も身じろぎしない。来るはずのない何かを待っているように見えた。

すると彼は、妙にはっきりした声で言った。

「来ないんじゃない。順番があるだけだ。」

その言い方が、ひどく自然だった。思いつきでも妄言でもなく、知っていることを言っている口調だった。

「何が。」

彼は答えず、唇だけを動かした。

しばらくして、背後から職員の声がした。

「面会の方ですか。」

いつ入ってきたのか分からなかった。中年の女性職員が、扉のところに立っていた。彼女は窓の外を見て、それからこちらに視線を戻した。

「長く待つんですよ、みなさん。」

何を待つんですか、と聞こうとしたが、先に彼が言った。

「迎えだよ。」

職員は否定しなかった。ただ、困ったように笑っただけだった。

それ以上の会話は続かなかった。彼はまた窓の外を見て、ごめんな、と小さく繰り返し始めた。何を聞いても同じだった。しばらく立っていたが、自分がいることで何かが変わる気もしなかった。

最後に、「また来る」と言った。

彼は、今度はちゃんとこちらを見た。

「来なくていい。」

そう言ったあとで、少し遅れて首を振った。

「いや。もう来てるから、同じか。」

意味が分からなかった。

部屋を出たあと、職員を捕まえて経緯を聞いた。彼は一年前に両親と来たという。ひどく衰弱していて、保護されたときには自分の名前も曖昧だったらしい。両親は何度か手続きで来たが、それきり顔を見せていないとも言った。

「ここ、病院じゃないんですか。」

そう聞くと、職員は少し考えてから答えた。

「待つところです。」

冗談に聞こえなかった。

その日は帰った。

帰り道、山を下るあいだ、どうしても背中が気になった。振り返るたびに、道の途中にバス停があるような気がした。もちろん実際にはなかった。

それでも数日後、また施設へ行った。

行かなければならない気がした。彼の言ったことを確かめたいというより、確かめないままにしておくのが危険な気がした。

だが、彼はもういなかった。

前夜の見回りのあと、部屋から消えていたという。窓は閉まっていた。非常口の警報も鳴っていない。監視カメラにも映っていない。職員は淡々と説明したが、慣れているように見えた。

「こういうこと、よくあるんですか。」

そう聞くと、相手は答えず、ただ視線をずらした。その先に、窓があった。

外のバス停には、五人座っていた。

前回より一人多い。

帰ろうとして、足が止まった。

一番端に座っている老人の横顔が、彼に見えた。

慌てて近づこうとしたが、建物の陰で見えなくなった。芝生を横切って停留所まで行くと、そこにいたのは見知らぬ老人たちだけだった。全員、虚ろな顔で前を向いている。五人いることだけは確かだった。

そのうちの一人が、ゆっくりこちらを見た。

見覚えのない顔だった。

ただ、その口元が動いた。

「もうすぐ。」

声は出ていなかったのに、そう言われた気がした。

気味が悪くなって、施設を出た。

それからしばらく、夜になると家の近くの道路をバスが通る音が気になるようになった。もともと本数の少ない場所なのに、深夜に停車音だけが聞こえることがあった。窓から見ても、何もいない。だが、ブレーキの空気が抜ける音だけは、はっきり聞こえた。

そのたびに、彼の言葉を思い出した。

来ないんじゃない。順番があるだけだ。

ある晩、会社から帰る途中、最寄り駅の手前で知らない停留所を見た。

工事中の仮設かと思った。だが、翌朝にはなかった。見間違いかと思ったが、その夜も同じ場所にあった。屋根とベンチだけの簡素なものだった。時刻表は白紙で、路線図もなかった。

ベンチには誰も座っていなかった。

その次の夜、そこに一人いた。

後ろ姿だけだった。痩せた男で、肩が落ちていた。仕事帰りのサラリーマンにも見えたが、近づくにつれて、立ち上がれなくなった。

こちらに背を向けたまま、その男は何かを繰り返していた。

「ごめんな。」

足が止まった瞬間、停留所の向こう側に、バスのヘッドライトが見えた。

こんな時間に路線バスが来るはずがないと思った。なのに、それはまっすぐこちらへ近づいてきた。行き先表示は暗くて読めなかった。停車するときの、あの覚えのある音がした。

扉が開いた。

乗客の姿は見えなかった。

それでも、待っていた男は立ち上がった。いや、立ち上がったというより、最初から立てない体を誰かに引かれるみたいに前へ出た。乗り込む直前、その男が少しだけ顔をこちらへ向けた。

彼だった。

施設で見たときより、さらに古びた顔だった。皮膚が乾いて、眼球だけが濡れていた。

それでも、笑っていた。

安心させる笑い方ではなかった。順番が来た者の顔だった。

扉が閉まり、バスは音もなく動き出した。後を追うことも、声を出すこともできなかった。

翌朝、その場所には何もなかった。

仮設の停留所も、ベンチも、白紙の時刻表もなかった。ただ、歩道の端に、見覚えのない丸い跡だけが残っていた。支柱を抜いたあとのような跡だった。

それ以来、帰宅途中に、視線を感じることがある。

道路の先。駅前のロータリー。会社の窓の外。どこにいても、誰かが来る方向だけが分かるようになった。

数日前からは、部屋の郵便受けに、時刻表が入るようになった。

白紙だった紙に、昨夜、初めて数字が出た。

次に止まる時刻なのだと思う。

まだ行き先は書かれていない。

(了)

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