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短編 r+ 都市伝説

シンガポールの百階 r+2,005-2,402

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学生時代、私が絶対に口外できないと決めていた出来事がある。

あれは大学四年の冬、世紀の変わり目をまたぐ頃のことだった。

シンガポールの空気は湿り気を帯びていた。十二月の終わり、南国らしい熱気が夜になっても残っており、街路樹の葉がべたつくように照り返していた。最先端のリゾートホテル、そのロビーには磨き抜かれた大理石が広がり、冷房の冷気と混じった香水のような匂いが漂っていた。私たち五人は、学生に似つかわしくない豪奢な一〇〇階建てのホテルの最上階に宿泊することになり、浮かれていたのを覚えている。

フロントで説明を受けた時も、耳には入っていたはずだった。
「二〇〇〇年問題で、零時ちょうどに電源を落とします。必ずそれまでにお戻りください」
笑って聞き流した。未来の大混乱を期待半分で囁くニュースの延長にしか感じなかったからだ。

街へ出ると、酔狂な人々が道にあふれ、花火と爆竹と歓声が渦巻いていた。湿った煙が髪にまとわりつき、甘いアルコールの匂いが鼻を刺した。私たちは群衆の熱に呑まれ、ただ騒ぎに身を投げていた。零時を過ぎても、気づけば二時を回っても、誰一人として「戻らねば」と思わなかった。

ホテルに戻ると、巨大なエントランスは沈黙に支配されていた。煌めいていたシャンデリアは暗く、フロントの奥に人影はなく、ガラス越しの街灯だけが床に滲む光を落としていた。エレベーターのボタンを押しても応答はなく、耳に届くのは自身の呼吸音ばかり。結局、私たちは一〇〇階まで階段で登るしかなかった。

二〇階までは軽口を叩きながら進んだ。靴底が金属の階段を打つ音が、奇妙に規則的に重なり、誰かがわざと笑い声を大きくしていた。三〇階、四〇階に差しかかると、笑い声は息切れに変わり、背中を伝う汗が冷房の残り香のような冷気で冷やされていった。

五〇階の踊り場で、ついに一人が座り込んだ。腿が痙攣し、シャツの背中は汗で貼りつき、酸っぱい匂いがこもる。「もう無理だ」と言いながら目を伏せた彼の声は、妙に遠く響いた。誰もがここで朝を迎える選択を思ったが、リーダー格の男が提案した。

「一階ごとに怪談を話して進もう」

それは悪ふざけの延長に聞こえたが、私たちはすがるように同意した。話し手の声は階段のコンクリート壁に吸われ、振り返ると誰かがすぐ後ろに立っているような錯覚を呼んだ。

学生寮の怪しい物音、山奥の神社で見た白い影、夜の教室に残る足音……話は次々と重なり、汗に濡れた手のひらをズボンに擦りつけながら、私たちは六〇階、七〇階を越えた。声を出すことでしか、己の存在を確認できなくなっていた。

やがて八〇階を超えた頃、もう言葉を継ぐ者はいなかった。呼吸は荒く、視界の端が暗く波打ち、金属の手すりがぬるりと汗で滑った。足音だけが重なり、無言の行列は九九階まで到達した。

最後の一人が口を開いた。
「次は俺の番だ。ここからが本当に怖い話だ」

顔は階段灯に照らされ、影が片頬を削っていた。私たちは息を殺し、その声に耳を寄せた。彼は低く囁いた。

「一階に鍵を忘れた」

息を呑む音が一斉に重なり、笑い声にも怒鳴り声にもならなかった。
その瞬間、背後の闇から、確かに「ガシャン」と金属音が一つ響いた。

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