学生時代、私が絶対に口外できないと決めていた出来事がある。
あれは大学四年の冬、世紀の変わり目をまたぐ頃のことだった。
十二月末のシンガポールは、夜になっても湿った熱気を失わなかった。街路樹の葉は水を含んだ布のように光を反射し、歩くだけで肌にまとわりつく。私たち五人は、学生旅行とは思えない最先端の高層リゾートホテルに宿泊していた。一〇〇階建て、その最上階。ロビーに敷き詰められた大理石は磨き抜かれ、冷房の冷気と香水の甘い匂いが混じって、現実感の薄い空間を作っていた。
チェックインの際、フロント係は淡々と説明した。
「二〇〇〇年問題への対応として、零時ちょうどに全館の電源を停止します。それまでに必ずお戻りください」
聞いてはいたが、真剣には受け取らなかった。世界が止まるだの混乱が起きるだのという話は、当時のニュースでは半ばお祭り騒ぎだった。何も起きないだろう。そう思っていた。
私たちは夜の街へ繰り出した。花火と爆竹の音が途切れず、路上には酒と汗と煙の匂いが渦を巻いていた。湿った空気が髪に絡み、笑い声が途切れることはなかった。零時を過ぎたことにも気づかず、気づいた頃には二時を回っていた。
ホテルへ戻った瞬間、異変ははっきりと分かった。
巨大なエントランスは暗く、昼間は輝いていたシャンデリアも沈黙していた。フロントには人影がなく、街灯の光だけがガラス越しに床へ滲んでいる。エレベーターのボタンを押しても反応はなく、無音のまま戻ってこない。
私たちは顔を見合わせた。
階段しかない。
一〇〇階まで。
最初は冗談の延長だった。二〇階くらいまでは、誰かがわざと大げさに息を切らせ、笑いを取ろうとしていた。靴底が金属階段を叩く音が、やけに揃って響いた。三〇階を過ぎる頃には、誰も冗談を言わなくなった。背中を流れる汗が、停電前に残った冷気で冷やされ、シャツが肌に貼りつく。
五〇階の踊り場で、一人が座り込んだ。腿が震え、顔色が明らかに悪い。
「もう無理だ」
その声は、階段の奥へ吸い込まれるように遠く聞こえた。誰もがここで夜を明かすことを考えたが、結局、最上階の部屋に荷物を置いたままだったことが判断を鈍らせた。
その時、リーダー格の男が言った。
「一階ごとに怪談を話そう。話し終えたら一階進む」
理屈にならない提案だったが、私たちはそれにすがった。声を出していないと、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだったからだ。
話はありふれたものだった。学生寮で聞こえた足音、深夜の教室に残る気配、山奥の神社で見た白い影。だが、階段という閉じた空間では、それらが妙に生々しく響いた。声は壁に吸われ、振り返るたび、誰かが一段多く立っているような錯覚を覚えた。
六〇階を越えたあたりから、違和感が混じり始めた。
話し終えたはずなのに、次の階に進むタイミングが合わない。誰が今の話し手だったのか、途中から曖昧になった。
「今の、誰の話だっけ」
そう聞くと、全員が一瞬黙り込んだ。誰も確信を持って答えられなかった。
七〇階を越える頃には、怪談の内容もおかしくなっていた。
「……それで、朝になったら、階段が一本増えてた」
「気づいたら、部屋番号が全部同じだった」
誰の体験か分からない話が混じり、現実の出来事と区別がつかなくなっていた。
八〇階を過ぎた頃、数を意識する者はいなくなった。ただ足を動かすことだけが目的になり、呼吸と足音だけが続いた。
それでも、不思議と「九九階まで来た」という認識だけは、全員に共有されていた。誰も数えていないのに、そこが九九階だと分かった。
最後の一人が立ち止まった。
「次は俺だな」
階段灯に照らされた顔は、どこか輪郭がずれて見えた。影が不自然に濃い。
「ここからが本当に怖い話だ」
私たちは無言で耳を傾けた。
「俺さ……さっき気づいたんだ。鍵を忘れたんじゃない」
一瞬、意味が分からなかった。
「部屋に、鍵がなかった」
息を呑む音が重なった。誰かが何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
その男は続けた。
「チェックインの時から、鍵を見た記憶がない。フロントで受け取ったはずなのに、誰も持ってない」
その瞬間、私たちははっきり理解してしまった。
最上階の部屋に戻る理由が、もう存在していないことを。
足元の表示板に目を向けると、階数は表示されていなかった。九九階のはずだった場所に、数字がない。代わりに、見慣れない記号が刻まれていた。
振り返ると、下へ続くはずの階段が暗闇に沈み、どこまで続いているのか分からなかった。上を見ても同じだった。階段は、上下ともに途切れず、同じ幅、同じ角度で続いている。
その時、誰かが小さく言った。
「……怪談、終わってないよな」
確かにそうだった。一階ごとに話すはずだった怪談は、九九階で終わる予定だった。だが、終わったという実感がない。話し終えた記憶が、どこにもない。
私たちは、自然に次の話を待つ姿勢になっていた。誰かが話さなければ、進めないという前提が、いつの間にか共有されていた。
階段の奥で、金属が触れ合うような音がした。
それが上なのか下なのか、もう判断できなかった。
私はその時、理解した。
この階段は、上りでも下りでもない。
話し続ける限り、終わらない。
だから今も、私はこの出来事を誰にも詳しく話さない。
話してしまえば、次の一階が生まれてしまうからだ。
そして、ここまで読んだあなたも、もう無関係ではない。
――ここから先は、誰の番だろうか。
(了)