先月、仕事の都合で北海道へ出張した。
場所は札幌から少し離れた地方都市で、駅前の賑わいを抜けると、急に夜が濃くなるような土地だった。
その日は移動が長引き、ホテルに着いたのは夜九時を回っていた。
外気はひんやりしていて、ロビーに入った瞬間、暖房の匂いと絨毯の湿った空気が混じる。地方のビジネスホテルによくある、少し古くて、無駄に天井が高い建物だった。
チェックインを済ませ、鍵を受け取る。
部屋は四階だと言われた。
エレベーターは一基だけ。
ロビーには他の客の姿もなく、フロントの女性もパソコンに視線を落としたままだった。
エレベーターに乗り、扉が閉まる。
内部はやや狭く、壁の鏡に自分の疲れた顔が映る。
操作盤の「4」を押すと、軽い振動とともに上昇を始めた。
妙だったのは、その途中だ。
数字の表示が「3」から「4」に変わる直前、一瞬だけ、エレベーター全体が沈むような感覚があった。
下に引っ張られた、というより、浮力が抜けたような感触だった。
気のせいだろうと思った。
長時間移動で感覚が鈍っているだけだ。
チン、という音とともに扉が開いた。
――暗い。
いや、暗いという言葉では足りない。
光が存在しない。
真っ暗というより、黒で塗りつぶされた空間が、扉の向こうに広がっていた。
エレベーターの中の照明だけが、境界線のように床を照らしている。
一歩外へ出れば、その光も飲み込まれそうだった。
目を凝らすと、まっすぐに伸びる廊下がかろうじて見える。
遠くに、客室らしき扉が一枚。
扉の上にある小さな避難誘導灯だけが、弱々しく点いていた。
壁も床も天井も、色がわからない。
質感だけが、黒の中に沈んでいる。
エレベーターの中から、少しだけ身を乗り出した。
その瞬間、空気が違うことに気づいた。
冷たい。
はっきりと冷たい。
暖房が効いているはずの館内とは思えない冷え方で、肌をなぞるような冷気が足元から立ち上ってくる。
それなのに、どこからも風は感じない。
空気が、そこに溜まっているだけだ。
節電で照明を落としているのかとも思ったが、それにしては異様だった。
音がない。
空調の音も、遠くの生活音も、一切聞こえない。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に返ってくる。
ここは、本当に四階なのか。
そんな疑問が遅れて湧いてきた。
操作盤を見直す。
表示は確かに「4」。
廊下の奥の扉を見つめていると、妙な感覚に襲われた。
あの扉は、最初からそこにあったのか。
それとも、こちらが気づいた瞬間に、浮かび上がったのか。
考えがそこまで及んだとき、背中がぞわりと粟立った。
ここは、自分の泊まる階じゃない。
理屈ではなく、身体がそう断じていた。
一歩も出ていないのに、戻らなければならないという焦燥だけが強まる。
私は慌てて操作盤の「1」を押した。
扉が閉まる直前、廊下の暗闇が、わずかにこちらへ滲み出したように見えた。
光が吸われる、という表現が一番近い。
エレベーターが下降を始め、ようやく息を吐いた。
一階に着き、扉が開く。
ロビーは明るく、人の気配もある。
フロントの女性も、何事もなかったように立っている。
自分の感覚を疑いながら、再びエレベーターに乗った。
今度は四階ではなく、五階を押す。
扉が開くと、そこは普通のホテルのフロアだった。
白い壁、明るい照明、廊下に並ぶ客室のドア。
どこにも異常はない。
そのまま一度降り、館内図を確認する。
エレベーターは一基、四階は確かに客室フロアと表示されている。
もう一度だけ、四階へ行ってみることにした。
理屈では説明できないが、確かめずにはいられなかった。
エレベーターは何事もなく上昇し、扉が開く。
そこには、普通の明るい廊下があった。
五階と何も変わらない、ごくありふれた四階。
冷気も、暗闇も、存在しない。
自分の部屋に入り、荷物を置いたが、しばらく落ち着かなかった。
あのとき、もし一歩でも廊下に出ていたら、どうなっていたのか。
夜中、喉が渇いて自販機へ行こうとしたが、エレベーターに乗るのをやめた。
階段を使った。
翌朝、チェックアウトの際、何気なくフロントに聞いてみた。
四階は、夜間に照明を落とすことがあるのかと。
女性は少し不思議そうな顔をして答えた。
「いえ、客室フロアの照明は常時点灯しています」
それ以上、何も聞けなかった。
ホテルを出て振り返ったとき、四階の窓だけが、妙に黒く見えた。
反射でも影でもなく、ただ、何も映していない黒だった。
今でも思う。
あれは「使われていない階」だったのではない。
使われていない《時間》だったのではないか。
あのとき、エレベーターが止まったのは、確かに四階だった。
ただし、それは「いつの四階だったのか」という話だ。
そう考えると、あの冷たさだけは、どうしても説明がつかない。
[出典:643 :本当にあった怖い名無し:2018/07/24(火) 01:18:55.31 ID:ZiLXvUg3V]