今でも、祖父の家の裏山に漂っていた湿った匂いを思い出す。
夏休みごとに弟と訪れていたその古い家は、瓦屋根が低く沈み、庭先に錆びた農具が積み上げられていた。夕方になると裏山から蝉の声と湿った土の匂いが重なり、空気は飽和していた。祖父の家は山奥にあり、道は狭く、外の世界から隔絶されているように感じられた。
私はその隔たりを不安と誇らしさの両方で受けとめていた。広い畑も池も、都会では見られない風景だったが、どこか人を寄せつけない冷えが潜んでいた。幼い頃はただ楽しい夏休みの舞台にすぎなかったが、今振り返ると、土地そのものが人を選んでいた気がする。
祖父は無口で、いつも煙草を手放さず、目は笑っていても奥に硬い影があった。祖母は淡々としていて、夕餉の支度をしながらときおり外の音に耳を澄ます仕草をした。私と弟は遊びに夢中で、その不自然な動きを見過ごしていた。
森の中の池は、祖父から「一人で行くな」と何度も念を押された場所だった。理由は聞いても教えてはくれない。ただ目を伏せるだけだった。
その年、私は妙な衝動に駆られていた。弟と池に向かう途中、胸の奥がざわつき、早く何かを試したい気持ちでいっぱいだった。子どもらしい無知と残酷さが混じっていた。
池の水面は濁り、周囲の木々が倒れ込むように枝を広げていた。弟が竿を投げると、すぐに鯉がかかった。彼は嬉々として針から外し、池に戻そうとした。そこで私は口を開いた。「これに洗剤をかけたらどうなるんだろう」
弟は一瞬ためらったが、結局私の提案に頷いた。ペットボトルに入れて持ってきた中身を鯉にかけると、鯉は痙攣し、やがて静かになった。
私たちは「猫が食べる」と言い訳し、そのまま岸に放置した。
そのときの胸の奥のざらつきは、罪悪感ではなく、妙に湿った期待だった。弟も同じ思いだったのか「猫が食べるとこ見たい」と言い、私たちは茂みに身を隠した。
夕刻、森の奥の大木が不自然に揺れた。風は吹いていなかった。枝をつかんで何かが降りてくる気配がした。
葉の間から覗いたそれは、猫にしては大きく、猿にしては毛深すぎ、何より重さのある低い声を漏らしていた。「もの……もの……」
私の背筋に冷えが走り、弟の手が震えて膝に触れた。
そいつは池に近づき、死んだ鯉を覗き込んだ。顔は赤子のように皺がなく、目は異様に澄んでいた。口元をゆがめ、「いきるもの……そだてるもの……かりとるもの……」と繰り返し、笑った。その笑いは、池の水面に鈍い波紋を広げた。
私たちは動けなかった。そいつは鯉を一瞥すると、「これで……できる」と呟き、森の奥へ消えていった。沈黙だけが残り、蝉の声さえ消えていた。
家に戻る道すがら、弟は何度も振り返り、口を開きかけては閉じた。夕飯時、ようやく弟が「あの猿……」と言いかけた瞬間、祖父の表情が変わった。
箸を置き、こちらを見据え、「何をした」と低く問う。私たちが白状すると、祖父は顔色を失い、「本当に大丈夫か」と繰り返した。
その夜、祖母に酒を浴びせられ、塩を振られた。意味がわからず泣き叫ぶ弟を、私は黙って抱きしめるしかなかった。祖父は電話をかけ終えると、声を荒げた。「もうこの家には来るな」
祖母が涙を隠すように台所に立ち尽くしていたのを覚えている。
祖父は短く説明した。「先祖が神に生け贄を差し出した。富と引き換えに、末代まで祟りを負った。だから殺生は禁止だ。怒らせたら……犠牲が要る」
私の心臓は耳の奥で鳴り、吐き気が込み上げた。
その夜、仏間に押し込まれ、「何があっても襖を開けるな」と念を押された。
深夜、窓を叩く音がした。「……あけてください」という声が続いた。弟がすすり泣き、私は布団を握りしめて声を殺した。朝が来るまで、誰も動かなかった。
翌朝、祖父母が仏間を開け、私たちは無事を確認された。何も言わずに送り出され、それ以来二度と祖父の家を訪れることはなかった。
高校一年の夏、祖父が急に亡くなったという報せが届いた。死因は教えられず、母は「寿命みたいなもの」とだけ言った。だが、あの夜の声と異形の姿を知る私には、言葉をそのまま受けとめることができなかった。
葬儀のために久しぶりに祖父の家を訪れたとき、門をくぐっただけで胸が圧迫されるような感覚に襲われた。瓦は崩れ、庭先は荒れ果てていた。以前は畑を耕す人々が出入りしていたはずなのに、人影はなく、蝉の声すら薄かった。
仏間には祖父の遺影が置かれていた。真っ直ぐな眼差しのまま、どこか遠いところを見ているように思えた。香の煙は天井に絡み、ゆらぎながら消えていく。その匂いで目頭が熱くなったが、涙は出なかった。
弟も隣に立っていた。彼の目は赤く腫れていたが、視線は遺影ではなく、庭に向いていた。あの池の方角だった。
夜、線香を絶やさぬよう仏間で交代で番をした。母と祖母が台所に下がった後、弟が小声で「兄ちゃん……窓の外に、またいる」と震えた声を漏らした。
息を殺して障子の隙間を覗くと、庭の端、松明の火のような赤い光がちらついた。ゆっくり近づいてきたのは、かつて森で見た“もの”に似た影だった。毛むくじゃらの体に、赤子のような顔。その口が動いた。「いきるもの……そだてるもの……かりとるもの……」
私の喉は乾ききり、声が出なかった。弟は布団を握り、歯を鳴らしていた。
その瞬間、仏間の遺影が音もなく傾いた。線香の火が揺らぎ、灰が畳に落ちた。祖父の写真の目が、こちらではなく外を見ているように感じられた。
影は障子の前に立ち止まり、低く囁いた。「……あけてください」
その声は以前よりも人の言葉に近く、祖父の声に似ていた。私の手は襖に伸びかけたが、背後で祖母の声が響いた。「絶対に開けるな」
振り返ると、祖母が白い布を握り、祈るように唇を動かしていた。母も青ざめて私たちを抱き寄せた。声はやがて遠ざかり、庭に溶けた。
翌朝、祖母は私たちを座敷に集め、短く告げた。「あれはおまえたちが呼び起こした。じいさんが代わりになった。だからこれで終わりだ」
弟が「終わりって……」と問い返すと、祖母はただ目を閉じた。その皺の深さと硬い表情に、言葉以上の意味が刻まれていた。
葬儀の帰り道、私は胸の奥で何かが確かに変わっていることを感じた。祖父の死と引き換えに、あの存在は満足したのか、それとも眠っただけなのか。わからないまま年月が流れた。
今、振り返るとあの日の洗剤のしみは、私の手にまだ残っている気がする。弟もまた、どこか人を避けるようになった。私たち兄弟が触れた一匹の鯉が、祖父の命に繋がっていたのかもしれない。
そして、線香の煙を見るたび、耳の奥であの声が囁く。「いきるもの……そだてるもの……かりとるもの……」
それが祖父の声だったのか、“もの”の声だったのか、もう区別がつかない。
結局のところ、私の中で二つは重なってしまった。
[出典:270: 2009/07/07(火) 00:27:42 ID:MDJEHio50]