今でもあの夜の霧の濃さを思い出すと、胸の奥がざわつく。
夏とはいえ標高が高いせいか、窓を閉めていてもじわじわと湿気が染み込んでくる。ワイパーが絶え間なく曇りを拭っても、視界は白い膜に覆われ、数メートル先のガードレールさえ幽霊のように浮かんでは消えた。
運転席の掌はじっとりと汗ばみ、ハンドルを握る力が強すぎると分かっていながら緩められなかった。深夜の山道、後続車もなく、車内には友人たちの低い会話と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが響いていた。
突然、背後が強烈に明るくなった。白い霧の海を切り裂くように、二つのヘッドライトが迫ってきた。
「ヤバいぞ!後ろ、ベンツだ!」後部座席の西村が叫ぶ声が震えていた。
スモークガラスに覆われた黒い車体は、こちらに吸い寄せられるようにぴたりと背後に張りついてきた。バックミラーの中でライトが揺れ、霧の粒子が光の斧で叩き割られるみたいに散っている。
「停まったら追突される……」口の中でつぶやいた途端、心臓が跳ねるように速くなり、アクセルを踏み込んでしまった。エンジン音が不釣り合いに大きく響き、急坂の闇に吸い込まれていく。
どれくらい逃げたのか分からない。呼吸が乱れ、助手席の友人が何度も振り返る。けれどベンツは距離を詰めることも、離れることもなく、まるで見えない糸で結ばれているように後を追ってくる。
やっと展望台の看板が見えた時、胸の奥で張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。
「ここでかわそう」そう決めてハンドルを切り、駐車スペースに車を滑り込ませた。
しかし、ベンツも同じように入ってきた。しかも出口を塞ぐように斜めに停めた。
呼吸が一気に重たくなる。窓の外は虫の声さえ聞こえず、霧の粒子がランプに照らされて浮遊している。
車から降りてきたのは二人だった。
一人は痩せぎすでスーツを着こなし、理容室帰りのように清潔な髪型をしている。もう一人は体格が大きく、肩で風を切るような歩き方をした。見慣れぬ二人なのに、どこか「こちら側」と「向こう側」の境界を意図的に押し広げる存在感があった。
スーツの男が軽くノックし、俺は震える指で窓を十センチだけ開けた。
「こんな時間に何しとるんや?」
低く穏やかな声だった。
「夜景を……見に来ただけです」喉が張り付くように乾いていた。
隣の大柄な男が笑った。「男ばっかりで夜景か。寂しいなぁ!」
二人は「煽ってすまん、勘違いやった」と軽く言い、ジュースを奢って世間話までしてくれた。空気は徐々に和み、煙草の煙が霧に混じってゆらめいた。表面上は普通の雑談に思えたが、妙に均衡を保った沈黙が何度も入り込み、そのたび背筋が冷えた。
やがて「用事があるから」と立ち去ろうとした時、スーツの男が運転席に乗り込み、大柄な男が後部ドアを開けた。覗き込む仕草に合わせて、車内灯が一瞬だけ灯った。
その刹那、西村がか細い声を絞り出した。
「……今、見えた。手ぬぐいで口を塞がれた人が……」
言葉が耳に届いた瞬間、体の芯まで冷水を流し込まれたようになった。背中が勝手に硬直し、誰も動けなかった。
「はよ言えや!」別の友人が震え声で怒鳴ったが、それ以上の行動は取れない。
ベンツはしばらくエンジンを唸らせたまま動かず、やがて一気に加速して展望台の先へと消えていった。
しかし、地図を知っている者なら誰でも分かる。あの先に舗装された道はない。ただ獣道が山腹に絡みつくだけだ。
エンジン音が遠ざかるまで、俺たちは口を閉ざしていた。展望台に残されたのは霧と冷気だけ。誰も「追うべきか」とは口にしなかった。全員が逃げたい気持ちでいっぱいだったのだ。
その夜の帰り道、西村は何も語らなかった。助手席で窓の外を凝視し、指先を握りしめたまま。
数日後、山近くで行方不明者のニュースが流れた。発見されずと淡々と報じられる記事を見て、俺たちは誰も言葉を交わせなかった。
記事の文字を追いながら、あのベンツの後部ドアに一瞬見えた影が、鮮明に甦るのを止められなかった。
その夜、確かに霧の中で交わした世間話の空気は、何もなかったかのように優しかった。だからこそ今も、時折思う。あの笑い声に応じて笑った自分たちは、果たして本当に「関係ない側」に立てていたのか、と。