駅前のタクシー乗り場は、終電を逃した人たちで薄くざわめいていた。
舗道にこぼれた雨粒が、街灯の光を跳ね返して、足元を曖昧にする。
私は携帯を耳に当て、友人の声に相槌を打ちながら、いつもの位置に並んだ。
列の先頭には一人の男が立っていた。背は高くも低くもない。
ただ、姿勢が奇妙に真っすぐで、風の中でも微動だにしなかった。
私が通話を続けながら少し距離をとって立つと、タクシーが滑るように停まり、
ドアが、まるで私を指名するように開いた。
前の男が乗るのだと思っていたが、彼は動かない。
まぶたを伏せたまま、遠くの信号を見つめている。
電話の向こうで、友人が「早く来て」と言った。
私は、譲ってくれたのだろうと思い、軽く頭を下げてタクシーに乗り込んだ。
シートに腰を沈めた瞬間、背中が冷たくなった。
男の気配がこちらに向かって走ってくる。
「あなた、私が見えるんですか!?」
タクシーのドアが自動で閉まり、ガラス越しに彼の口が歪んだ。
運転手は何事もなかったようにハンドルを切り、静かに発進する。
「見えるんですね!? 待ってください!!」
男の声は排気音に混ざって遠ざかっていった。
私は窓越しにその姿を追った。
駅の光が流れていく中で、彼は走り続けていた。
右手を伸ばし、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
やがて彼の影は消え、タクシーの中には、私の呼吸だけが残った。
「今の人、何だったんでしょうね?」
気を落ち着けようと運転手に話しかけた。
「え? どなたのことです?」
視線がバックミラーに映る。そこには、ただ無表情な運転手の目。
その瞬間、胸の奥が急に軽くなり、代わりに耳鳴りのような風の音がした。
翌日、私はその駅に行かなければならなかった。
仕事の関係でどうしても外せない用事があったのだ。
夕方の空気は妙に乾いていて、昨日よりも人が少なかった。
タクシー乗り場の蛍光灯が、白く滲んでいる。
そこに、あの男がまた立っていた。
背筋をまっすぐに、動かずに。
私は遠くから見ているつもりだったのに、気づけば足が列の端に踏み出していた。
ポケットの中の携帯が震えた。画面には誰の名前も出ていない。
耳にあてても、ノイズだけが聞こえる。
「お急ぎですか?」
声に振り向くと、タクシーが私の前に止まっていた。
ドアが開き、冷たい空気が足元を撫でた。
乗るべきか、迷った。
しかし、蛍光灯の下でじっと立っている男の背中が、まるでこちらを見ているように思えた。
目が合った瞬間、彼の唇が微かに動いた。
「行かない方がいい」
そう言われた気がした。
だが、私は歩き出していた。
足音が硬く響く。
ドアの向こうの暗がりに吸い込まれるようにして、シートに体を預ける。
「どちらまで?」と運転手が言う。
昨日と同じ声だった。
「……昨日もこのあたりで、変な人を見ませんでしたか?」
「いえ、私は昨日はお休みでしたよ」
背中に汗がにじむ。
ウインカーの音だけが車内に弾む。
街の明かりが減り、窓の外が黒く沈む。
時計を見ようとしたが、携帯の画面が真っ暗だ。
押しても、何も点かない。
胸の中に、誰かの呼吸のような気配が混ざる。
「三年もこのままなんです」
どこかで、聞いた声がした。
振り返ると、後部座席の隅に水滴が一粒、光っていた。
ライトが差し込むたびに、世界が一瞬だけ白く反転する。
そのたびに、自分の手が薄く透ける気がした。
運転手の肩越しに、駅前が再び近づいてくる。
「着きましたよ」
ドアが開く音がして、私は外に出た。
アスファルトの上には、まだぬるい雨の匂いが残っている。
振り返ると、さっきの男が立っていた。
今度は、列の一番後ろで。
私は思わず声をかけた。
「あなた、私が見えるんですか?」
彼は一瞬きょとんとした顔で、私を見た。
そして、タクシーのドアが開いた。
車のライトが再び白く地面を塗る。
男は軽く会釈してタクシーに乗り込んだ。
運転手が何かを言ったが、音にならなかった。
私は口を開いたが、声が出ない。
誰も、私の方を見ない。
通りすがる人の肩が、私の身体をすり抜けていく。
気づけば、手の中の携帯が光を失っている。
画面の中に映るのは、私ではなく、背を向けた誰かの影。
それが、タクシーの後ろを追いかけていた。
遠ざかるライトの粒を見つめながら、私は静かに笑った。
「見えるんですね、私のことが」
その声は、夜の風にすぐに溶けていった。
駅のアナウンスが流れ、蛍光灯が一つ、また一つと落ちる。
最後に残った灯の下で、誰かが立っている。
姿勢を真っすぐに、風にも揺れず。
その人が誰かを待っていることだけが、はっきりわかる。
[出典:122 :本当にあった怖い名無し:2006/09/09(土) 17:09:28 ID:Z6IER3SM0]