あいつは十年かけて、五分の道を歩いてきた。
工事屋として独立したばかりの頃、俺はとにかく人手に困っていた。現場は取れても、職人が足りない。腕のいい者ほど予定が埋まっているし、空いている者には空いているなりの理由がある。
その日も、急ぎで呼んだ職人が一人いた。
名前はここでは伏せる。仮に高田としておく。
高田は朝八時にうちの倉庫へ来る約束だった。そこから一緒に資材を積んで、現場へ向かう段取りになっていた。家から倉庫までは自転車で五分ほど。大きな通りに出て、コンビニの角を曲がればすぐだ。迷うような道ではない。
だが、八時になっても高田は来なかった。
電話をかけた。つながらない。呼び出し音も鳴らず、すぐに切れた。電源を落としているときの切れ方に似ていた。
「飛んだか」
そう思った。
独立したての頃は、そんなことも珍しくなかった。前の日まで調子よく返事をしていたやつが、当日の朝になって消える。こっちは怒る暇もなく、別の人間を探すしかない。
その日も、どうにか仲間をかき集めて現場を終えた。
高田のことは、もう腹を立てる値打ちもないと思っていた。
三日後の朝、高田の奥さんが倉庫に来た。
「主人、こちらに来ていませんか」
顔を見た瞬間、ただのバックレではないと分かった。眠っていない人間の顔だった。
話を聞くと、高田はあの日、いつも通り作業着を着て家を出たという。弁当はいらないと言い、自転車で出ていった。それきり帰っていない。電話は俺がかけたときと同じで、呼び出し音も鳴らない。
俺の嫁が奥さんに付き添って、警察に届けを出した。
高田はそのまま見つからなかった。
しばらくは警察から連絡が来るたびに身構えた。どこかで倒れていたのではないか、事故に遭ったのではないか。そう考えるたびに、あの日の朝、もっと早く家に電話していればと思った。
だが、人間は慣れる。
一年が過ぎ、三年が過ぎ、十年が過ぎた。
会社は少しずつ大きくなった。倉庫も借り換えた。斜め向かいにあったコンビニは潰れて、今は月極駐車場になっている。看板もポールも撤去され、アスファルトだけが妙に新しい。
去年の暮れだった。
昼過ぎに倉庫へ戻ると、シャッターの前に男が立っていた。作業着姿で、こちらを見ずに首をかしげている。誰だと思って車を降りた。

男が振り向いた。
高田だった。
「社長、すみません」
高田はそう言った。
十年前と同じ顔で。
俺はしばらく声が出なかった。髪の量も、頬の線も、日焼けの残り方も変わっていない。うちの社名が入ったベストを着ていた。十年前に貸したまま返ってこなかったものだ。
「お前、今までどこにいた」
そう聞くと、高田は困ったように笑った。
「すみません。道が分からなくなって」
「道?」
「はい。会社に行こうとしたんですけど、何回曲がっても着かなくて」
家からここまで五分だろう、と言うと、高田は頷いた。
「それが、ずっと走ってるのに着かないんです。おかしいなと思って、腹が減ったから向かいのファミマで弁当買って、それから出てきたら」
そこで高田は、自分の足元を見た。
「自転車が古くなってました。サドルがなくて、チェーンも錆びてて。触ってたら、弁当がなくなって。そのあと自転車も見えなくなって。で、顔を上げたら、会社があったんです」
俺は向かいを見た。
そこにファミマはない。八年前からない。
念のため、高田に店の様子を聞いた。外国人の店員が一人いたという。薄い青のシャツを着て、名札は読めなかったらしい。弁当は唐揚げ弁当で、レジ袋は断った。財布から千円札を出したところまで覚えている。
高田の財布には、千円札は残っていなかった。
レシートはなかった。
その代わり、作業着の膝には朝つけたらしい泥が乾かずに残っていた。右手の甲には、前日に現場で擦ったという小さな傷があった。血は固まりきっていなかった。
奥さんに連絡した。
電話口で、奥さんは泣かなかった。
「そっか」
それだけ言った。
迎えに来た奥さんは、十年分だけ老けていた。高田はそれを見て、最初、奥さんだと分からなかった。
奥さんは高田の顔を両手で挟み、笑いながら言った。
「朝から昼までしか経ってないんだね」
高田はきょとんとしていた。
「ごめん。遅刻した」
「うん。アホだね」
奥さんは何度も頷いた。
「おかえり」
その言い方が、俺には少し怖かった。
十年ぶりに戻った夫を迎える声ではなかった。毎朝、玄関で見送って、昼に戻ってくるのを知っていた人の声だった。
高田は病院にも連れて行かれた。記憶の障害だとか、長い失踪のあとで本人だけ時間の感覚を失っているとか、いろいろ説明されたらしい。
俺は詳しく聞かなかった。
聞いたところで、あの顔と傷の説明にはならない。
高田は今、うちで軽い仕事を手伝っている。体はよく動く。十年前のままだ。俺より息が上がらないこともある。
ただ、今の話題がまるで通じない。
東日本大震災のことを知らなかった。元号が変わったことも、最初は冗談だと思っていた。スマホの形を見て、しばらく黙っていた。
一度だけ、俺は聞いた。
「お前、本当に朝、家を出たんだよな」
高田は頷いた。
「はい」
「それで、昼に着いた」
「はい。すみません」
高田はまだ、本気で遅刻を謝っている。
奥さんは毎朝、高田を送り出すそうだ。
弁当は持たせないという。
理由を聞くと、奥さんは少し考えてから言った。
「途中で買うって言うから」
それ以来、俺は朝、必ず倉庫の前を見るようになった。
高田が立っているかどうか。
向かいの駐車場に、何か落ちていないかどうか。
今朝、高田はまだ来ていない。
奥さんから電話があった。
「そっち、着いてますか」
俺は、まだです、と答えた。
受話器の向こうで、奥さんは小さく笑った。
「大丈夫です。朝から昼までですから」
電話を切ってから、向かいの駐車場を見た。
新しいアスファルトの上に、白いレジ袋が一枚落ちていた。
風もないのに、そこだけ少し膨らんでいた。
[出典:220 :本当にあった怖い名無し:2019/06/12(水) 23:33:12.48 ID:2Srht5ny0.net]