新年互礼会という行事が、私の勤め先にはある。
三が日も明けきらぬうちに全職員を集め、理事長の訓示を聞かされるだけの、正直に言えば苦行に近い集まりだ。
会場はさして広くないホールで、そこに百人近い職員が立ち並ぶ。暖房は効いているが空気は淀み、一時間近く立ちっぱなしになるため、毎年必ず一人か二人、貧血で倒れる者が出る。椅子を用意したり、水分補給を促したりと対策は取られているが、この行事そのものが見直される気配はなかった。
その年も例外ではなかった。
私は少し俯き、並んだ職員たちの足元をぼんやり眺めながら、理事長の長い話を右から左へ流していた。
急に、斜め前の辺りがざわついた。
「大丈夫?」
そんな声が上がり、空気が一瞬だけ揺れた。誰かが倒れたのだと、すぐに分かった。理事長はちらりと視線を向けただけで、話を続けている。
内心で舌打ちしながら視線を戻した、そのときだった。
足元を、白っぽい小さなものが走った。
職員の靴と靴の間を縫うように、素早く、しかし無音で進んでいく。イタチに似ているが、耳は尖り、体は一回り小さい。妙に輪郭がはっきりせず、床に影を落としているのかどうかも分からない。
こんな場所に動物がいるはずがない。
そう思ったが、周囲の職員は誰一人として足元を気に留めていなかった。あれほど近くをすり抜けているのに、避けようとする者すらいない。
気づいているのは、私だけだった。
小さな動物は、倒れた職員の方角から現れ、出口へ向かって一直線に進み、やがて見えなくなった。
私はそれを目で追いすぎてしまい、互礼会が終わった後、落ち着きがなかったと現場主任から注意を受けた。
その後は、いつも通りの勤務だった。
私は特別養護老人ホームで働いている。盆も正月も関係なく、利用者の日常は続く。
「今年もよろしくお願いしますね」
そう声をかけながら回っていると、普段ほとんど口を開かないAさんが、ぽつりと言った。
「イヌが出たな」
思わず立ち止まった。
Aさんは軽度の認知症があり、会話が噛み合うことの方が少ない。
「……はい?」
「イヌが出たろう。あんた達が集まっとった時だ。こんな小さいのが」
そう言って、両手でバレーボールほどの大きさを示した。
私は、互礼会で見たあの白い動物を思い出していた。
「あれ、犬なんですか」
「そうよ。昔から、隣のBが使うんじゃ」
Bさんは、隣のユニットで寝たきりになっている利用者だ。
話が妙な方向へ転がり始めていると感じつつ、私は耳を傾けてしまった。
「あれは若い者のイキを、ちっとばかり盗んでいく。そしたらBは、また少し生き永らえる」
「イキって……」
「命のことよ」
そこまで言うと、Aさんは疲れたように目を閉じ、それ以上は何も話さなかった。
私は内心で首を振った。
認知症の方の話を否定しないのは基本だが、だからといって、Bさんが何かを使って他人の命を奪うなど、信じられる話ではない。
ただ、寡黙なAさんがここまで具体的に語ったことと、私自身の体験が重なっていることが、妙に引っかかった。
その疑問は、忙しさに紛れて薄れていった。
夕方には、あの小さな動物のことすら、ほとんど意識に残っていなかった。
一月も半ばを過ぎた頃、退勤時の更衣室で、隣のユニットの職員と顔を合わせた。
新年互礼会の日に倒れた職員だった。
「もう体調は大丈夫?」
「はい、すっかり。騒ぎになっちゃって、恥ずかしかったです」
そう言って笑いながら着替えていた彼女が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、Bさんって分かります?」
「利用者さんの? 分かるけど」
「最近、すごく調子がいいんです。年末は声も出なくて、もう危ないかと思ってたのに。年が明けてから食欲も戻って、昨日なんて、新年の挨拶までしてくれたんですよ」
本当に嬉しそうだった。
介護士として、それは何よりの喜びだ。
私は微笑み返しながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
あの白いもの。
倒れた職員。
Aさんの言葉。
そして、回復したBさん。
どれも、つながっているとは言えない。
けれど、無関係だとも言い切れなかった。
その夜、帰宅して靴を脱いだとき、玄関の床を、思わず見下ろしてしまった。
何も、いなかった。
それでも私は、しばらくその場を動けなかった。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「茉莉花 ◆YKNRA59o」 2019/01/04]