あれは、大学三回生の秋口だったと思う。
はっきり季節を覚えているわけじゃないけど、空気がじっとり重くて、でも夜になると肌寒い。そんな中途半端な気候の夜だった。
俺が通ってた大学は、町からはずれた山の中にあった。山の上にぽつんと建つ小さな大学で、周囲にはコンビニも民家もなかった。最寄り駅まではバスが一時間に数本。乗り遅れたら最後、真っ暗な山道を歩くしかない。
あの日も、研究室で時間を食ったせいで、最終バスに間に合わなかった。テーマは生き物系で、生体データがまるで取れなくて……教授からのプレッシャーもきつくて、毎日遅くまで研究室に居残ってたんだ。
大学の構内から、山道に出ると、まるで別世界だった。頼りない電灯が申し訳程度に等間隔で立ってるだけ。周囲は木と闇ばかり。アスファルトの道も舗装こそされてたが、両脇には獣道みたいな草むら。通行人なんてひとりもいない。空気が音を吸わず、俺の靴音だけが妙に耳に刺さった。
ポケットからスマホを出してライトをつけ、足元を照らしながら下山を始めた。五分、いや十分くらい歩いた頃だったか、後ろの方からエンジン音が聞こえてきた。
車の音がするのは珍しくもない……はずだった。けど、その時の山の静けさと、エンジン音の主張の強さがどうにも合わなくて、違和感だけが胸に引っかかった。
音はどんどん近づいてきて、俺の背後を抜け、少し先でピタリと止まった。テールランプが、赤く道を照らしている。なぜか、車から人が降りてくる気配がまったくない。ただ、エンジン音だけが生きている。
変な胸騒ぎがして、足を止めた。急に、心臓の音が耳の奥で響き出した。逃げた方がいい……と、頭が警告してくる。
次の瞬間、車のクラクションが何度も鳴った。夜の山に、耳障りな警報音が響いた。その直後、誰かが怒鳴るような声が聞こえた。「おい!」「テメェ!」……そんなふうに聞こえた。はっきりとは分からなかったが、怒りとも狂気ともつかない、喉を搾るような叫び声だった。
完全にヤバいと思って、俺は来た道を逆走した。走りながら何度も振り返ったが、車は微動だにしていない。ただ、背後からの視線のようなものだけが、ひたひたと肌を這っていた。
途中で、低いフェンスがある畑に気づいて、すぐによじ登った。足がもつれて転びかけながらも、なんとか大学方向の敷地へ逃げた。土のにおい、草を踏む音、ぜんぶが混ざって頭の中が真っ白になっていた。
やがて大学構内にある駐車場の明かりが見えた時、涙が出そうになった。その光の下に、人影が一つ。駐車中の車の横に立っていた男子学生だった。見知らぬ顔。けど、そんなことどうでもよかった。
半泣きで駆け寄って、わけも分からず「助けてください」と言った。男は驚いていたが、俺の学生証を見せて、大学生だと分かると、事態を飲み込んだのか、車の中に入れてくれた。
「怖い車に追われた。逃げてきた」
とにかく、それだけを繰り返してた。
男は俺の話をうんうんと聞いて、背もたれに身体を預けた俺の肩に手を置いてくれた。「大丈夫、大丈夫だから」と。まったく知らない学部の奴だったけど、あのときの言葉は本当に沁みた。
少し落ち着いた頃、「下まで送ってあげようか」と言ってくれた。俺は後部座席に移って、なるべく車窓の外から見えないように体を横にして座った。
道中、俺は何度か訊ねた。
「さっきの車……まだ停まってませんでしたか?人、いませんでしたか?」
だが男は、首を横に振った。
「誰もいなかったよ。車どころか、人の気配すらなかった」
たしかに、エンジン音もクラクションも、もうどこにもなかった。人の気配の代わりに、虫の声と、舗装路を滑るタイヤの音が、やたら耳に残った。
山を下りる頃には、町の灯りとバス通りの喧噪が戻ってきて、ようやく呼吸が整った。部屋の前まで送ってもらい、礼を言って、鍵を開けて中に入った。ベッドに倒れ込んだあと、靴も脱がずに寝てしまった。
翌朝、ニュースで見た。
夜中に、俺が歩いていたあの山道で、車が崖下に転落したという。二人死んでいた。二十代とおぼしき男女だった。
車の外で倒れていたという。詳細はまだ不明。運転ミスか、痴情のもつれか、警察も原因を調査中だという。
どんな顔をしていたのか、どちらが運転していたのか、乗っていた車種すら、ニュースでは触れられていなかった。
だけど、俺には分かる気がする。
あのとき、俺の横を走り抜けたあの車。
俺を追いかけて、叫び、怒鳴り、フェンスの向こうに消えていったあの音。
あれは、もうこの世のものじゃなかった。
俺が見たのは、事故の「前」じゃない。
事故が起こった「後」に、まだあの道に残っていたなにかだった。
靴音がやけに響いた、あの山道。
……あれは、俺の音だけじゃなかったんじゃないか。
[出典:985 :本当にあった怖い名無し:2022/01/08(土) 17:21:19.83 ID:tEvYmMZE0.net]