愛知県の山間にあるその村で「お雛様」と呼ばれる人形の風習を知ったのは、私が中学生になる少し前のことだった。
雛祭りに飾るような華やかな人形ではない。男雛と女雛に似せてはいるが、顔は描かれず、体つきも不揃いで、布を丸めて縛っただけのような簡素なものだという。必ず二体一組で、娘を授かった母親が一人きりで作る。それだけが絶対の決まりだった。
材料は問われない。着物の端切れでも、和紙でも、古い下着でもいい。ただし、途中で誰かに手伝わせてはいけない。母親が一人で作り切ることが大切だと、村では言われていた。
完成した人形は娘に見せる必要もない。家に飾ることも、持ち歩かせることもない。どこにしまうかも、燃やす時期も、家ごとに違う。ただ一つ共通しているのは、「作った」という事実だけが残ることだった。
村では、その行為自体が祈りであり、母親の願いが人形に移るのだとされていた。
娘が十七歳になるまで、幸運は閉じられている。怪我が多い、病気がちだ、運が悪い。そうしたものは「まだ開いていないから」と説明された。そして十七歳を迎える年、娘の運は一気に解かれ、代わりに厄はお雛様が引き受ける。
それを村人は「お雛様が開く」と呼んだ。
私はその風習を、どこか昔話のように聞いていた。なぜなら、私の母は村の外から来た人間で、私のためにお雛様を作ってはいなかったからだ。誰もそれを責めなかったし、呪いがあるわけでもない。ただ、うちは「そういう家ではない」というだけだった。
風習を現実として突きつけられたのは、従姉妹の姉の変化を目の当たりにしてからだ。
彼女は子どもの頃から目立たない存在だった。成績は平均、運動も苦手で、顔立ちも特別整っているわけではない。視力が悪く、いつも眼鏡をかけていた。転びやすく、脚には青あざが絶えなかった。
だが、十七歳の誕生日を過ぎたあたりから、周囲がざわつき始めた。
まず、眼鏡を外した。視力検査で問題がなくなったという。次に、体型が変わった。食事量は変わらないのに、肉付きが落ち、顔立ちがはっきりした。脚の痣も、いつの間にか消えていた。
本人は戸惑っていたが、周囲は「開いたんだね」と納得したように頷いていた。
それからの彼女の人生は、説明が追いつかないほど滑らかだった。進学、受賞、留学、結婚。何かを努力した形跡はあるのに、必ず道が先に用意されているような歩き方だった。
一方で、彼女はときどき奇妙なことを口にした。
「昔の写真を見るのが、ちょっと苦手なの」
理由を聞くと、「自分じゃない気がするから」と言って笑った。その笑顔が、どこか他人行儀に見えたのを覚えている。
祖母にお雛様の話を詳しく聞いたのは、その頃だ。
村の奥には、今は名前もはっきりしない小さな神社がある。かつては「光の神」を祀っていたというが、明治以降、記録は途切れた。祖母は、人形は神の代わりではないと言った。
「人形は受け取るだけだよ」
何を、と聞くと、祖母は少し黙ってから答えた。
「溜まるものを」
伊勢湾台風の話も、同じ流れで語られた。家は流され、人形も失った。それでも家族は助かり、後に商売が繁盛した。流された人形は、後日、壊れた姿のまま見つかり、神社で焼いたという。
「中、重かったよ」
祖母はそう言って、それ以上は語らなかった。
正月の早朝、古くなったお雛様を焚く行事を見たことがある。輪になった村人たちの中央で、人形は静かに燃えた。火は弱く、煙だけがやけに濃かった。
燃え残った布が、途中で形を保ったまま崩れたとき、誰かが小さく息を呑んだ。理由は誰も言わなかった。
その年、従姉妹の姉が妊娠した。女の子だと分かると、彼女は笑いながら言った。
「作らなきゃね」
その声に、私は妙な違和感を覚えた。誰が作るのか、という疑問が浮かばなかったからだ。
村の人間は減り、風習は消えかけている。それでも、お雛様を作る家はまだある。作られる理由は、守るためだと誰もが言う。
だが、引き受けたものがどこへ行くのかを、知ろうとする者はいない。
最近、私は昔の写真を見るのが苦手になった。写っている自分が、どこか薄く、背景の方がはっきりして見える。
母は私にお雛様を作っていない。それなのに、なぜか家の押し入れの奥に、見覚えのない布の塊がある。二つ、並んで。
触ると、少しだけ重い。
[出典:511 :本当にあった怖い名無し:2011/09/08(木) 11:31:58.25 ID:LCdS40vq0]