こないだ、親父が物置の奥からガラクタを掘り返してた。
夕方になって居間に戻ってきたら、ちゃぶ台の上が昭和の墓場みたいになってた。古びたフレアパンツ、レコード、欠けた陶人形、誰が読んだかわからない海外文学のペーパーバック。
埃っぽいその山の中に、妙に目を引く一枚の写真があった。
セピア色に褪せたソファに、若き日の親父と見知らぬ白人女。
親父の髪は中途半端に長くて、当時の流行りなんだろうがどう見ても変だ。
女のほうは、頬がこけ気味で顎のラインが弛んでるけど、まあ美人の部類。
写真の裏には何も書かれていなかった。
「大学三年の夏、ヨーロッパを放浪してたときのだ」
親父はそう言ったあと、妙なことを呟いた。
「この子についてはな、いまだによく分からんことがあるんだ」
途端にイヤな予感がした。親父の若かりし日の武勇伝、つまりは一夜のチョメチョメ話に付き合わされるんじゃなかろうかと警戒して立ち上がろうとした矢先、
「気味の悪い話でな」
ピタリと足が止まった。
話してみろ、と言う前に親父は語り出した。ゆっくりと、煙草に火をつけるような調子で。
夏の終わり頃、北欧のラップランド地方、フィンランドの西部、地名も忘れたような海沿いの町。
そこに一週間ほど滞在していたそうだ。珍しい日本人ということで、町中から歓迎され、新聞にまで載った。
宿泊先のホテルでは、夏休み中の学生らしい女がウェイトレスをしていて、どうにも彼女が親父に興味を持っていたらしい。いや、当時の親父としては、そう思いたかったのかもしれない。
「まあ、正直言って、ワンナイトラブ狙ってた」
煙草の灰を灰皿に落としながら、親父は言った。
「三日目の夜、あの町で変なものを見た」
その夜はなぜか眠れなかったそうだ。
ベッドに入ったものの寝返りばかり打っていたら、突然、女の悲鳴のような声が聞こえた。甲高く、耳の奥にこびりつくような。
時計は夜中の二時半を指していた。
好奇心が勝って、窓のカーテンを少し開けた。フィンランドの夜は長く、空はまだどこか白んでいたという。
ホテルの前は石畳の広場。そこに、ネグリジェ姿の女がひとり、首を激しく振り乱しながら走り回っていた。
長い黒髪が鞭のように宙を打ち、彼女はオーッ、オーッと獣のような声を上げていた。
その姿がどうにも、この世のものには見えなかったそうだ。
誰も窓を開けず、灯もつかない。まるで町全体がその存在を無視しているような、不気味な沈黙。
女はしばらく走り回った後、広場の中央でぴたりと止まった。
そして、何かを探すようにぐるりと顔を巡らせ――
その瞬間、親父の全身に寒気が走った。
直感で、見てはいけないと感じたらしい。慌ててカーテンを閉めて、ベッドに戻った。
「その時、ノックされた」
親父の声がわずかに震えたのを、俺は聞き逃さなかった。
覗き穴から見えたのは、あのウェイトレスの女だった。
彼女はドアを開けた瞬間、親父の襟首を掴んで耳元でこう囁いた。
「決して外を見ないで。静かにしていて」
そう言って去っていった。
混乱していると、今度は耳を裂くような叫び声が窓の向こうから聞こえてきた。
しかも……叫び声は階を這い上がるように移動していたという。
一階、二階、三階、四階……そして、五階の窓のすぐ外から。
バンバンバン。
窓ガラスを叩く音がした。何度も。
親父は気絶した。
翌朝、信じられないことに目覚めは良かったらしい。
ホテルのレストランで朝食をとっていると、昨日のウェイトレスが水を注ぎに来た。
まるで何もなかったかのような、眩しい笑顔だった。
話しかけようとしたが、彼女はそのまま去っていった。
代わりに、テーブルの上には小さな紙片が置かれていた。
震える指で広げたそれには、たった一行、こう書かれていた。
「あなた、生贄にされる。早く逃げて」
親父は即座に荷造りをして、ホテルを出る決断をした。
だが、その直後、ホテルのオーナーらしい髭面の男が部屋を訪ねてきた。
「もっと居てくれ。安くするから。ウェイトレスも、そう望んでいる」
その言葉に、背筋が凍った。
何かが仕組まれていたのか。
町ぐるみで、あの女の叫び声を封じ込めるための……何か?
「いや、もう出ます。友達と合流する予定で……」
そう言ってその場を去ったが、町を離れる間中、ずっと誰かに見られているような感覚がつきまとったという。
「今思い返しても、説明がつかんのだよ」
親父は写真を眺めながら言った。
「そのウェイトレスの名前も思い出せない。確かに聞いたはずなのに、まるで最初から……」
ふと、親父が俺をじっと見た。
「顔も、な。不思議とな、記憶に残っていないんだ」
部屋の隅のラジカセが突然ノイズを吐いた。
俺は寒気を覚えて、写真を裏返した。
そこには何も書かれていない。ただ、彼女の手が、ソファの下に伸びていた気がした。
(了)