ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

沈む空の底で、触れたもの n+

更新日:

Sponsord Link

今でもあの夏の匂いを思い出すと、胸の奥にじんわりと沈殿するものがある。

奈良の吉野の谷に降りた時、空気は生ぬるく、川面から上がる湿り気がふくらはぎにまとわりついた。お盆前の昼下がりで、光はぎらついているのに、影の輪郭だけが妙に濃かった。祖母の家に泊まるはずが、その夏に限って親父が「せっかくやから外に張ろう」と言い出し、テント一式を積んで吉野川沿いのキャンプ場に向かったのだ。

キャンプ場は、谷の幅がふっと広がったところにあった。川は普段、流速がはやくて泳ぐどころではないのに、その区画だけはせき止められたように落ち着き、水が溜まって、池のような平面になっていた。小学校の講堂の半分ほどの広さ……と記憶している。岸は小石で白く、日差しを受けて熱をもつ。ミミズを潰したようなにおいが時折風に混ざる。

中学生らしき団体がすでに何十人も水遊びをしていて、こちらが到着した頃にはもう人工プールのようなざわつきになっていた。水深は二メートルほどだと親父が足で探って言った。水着に着替えながら、背中を汗がつーっと滑り落ちる。水は青く、しかし透明ではなく、底のぬめりを隠すように薄く濁っていた。

私は当時、二キロくらいは平気で泳げた。足をつけた瞬間、ひやりとした温度が膝下に絡む。それが次の瞬間、太ももあたりで急に生ぬるく変わる。その差がくっきりして、皮膚がきゅっと収縮するのを感じた。水に身体を預けると、頭上の空がやけに青い。輪郭が濃く、どこか固体みたいで、触れたら割れそうな質感の青だった。

何度かクロールで往復すると、胸の奥がじわじわ熱くなり、息は乱れていないのに、背骨の根元がだるくなる。水音の下で、自分の手が掻く泡がやけに遠く聞こえた。ふっと視界の端が震える。上を見た。その青が、さっきより深く沈んだように感じる。空なのに、底があるような印象。そこに吸い込まれるような感覚。

瞬間、手足が自分のものじゃなくなる。力が抜けるのではなく、そもそも指令が届かない。耳の内側に風船を押し込まれたみたいな圧がのしかかり、呼吸のパターンが崩れる。喉の奥に冷たい筋が通り、次の瞬間、身体ごと水の底に向かって沈んだ。肺は動いているはずなのに、空気がうまく流れない。水がやけに甘いにおいをした。

視界の上で青い空が遠のく。指が、何かに触れた気がした。藻の感触ではない。指先を巻くような細い抵抗。人の腕のようで、でも柔らかさが曖昧。そこから先の記憶がない。気づけば親父が抱え上げていて、私は岸に寝かされていた。喉がひりつき、視力がまだ戻っていなかった。耳の奥で水音だけがくぐもって響いた。

テントに戻された時、胃の底がしんと冷えていた。

親父がタオルで髪を乱暴に拭きながら「おまえどうしたんや」と言った。その声が少しかすれているのを覚えている。私は答えた。「分からん……あんな感じ、初めてや」。言葉にすると、胸の奥にざらっとした違和感が浮かんだ。体調でも、水温でも説明がつかない、何か薄い膜のようなものが張りついた感覚。

その夜は、別の場所へ移動してテントを張り直した。焚き火のにおいが、まだ身体の奥に残る川の冷たさと混ざって胸をざわつかせる。耳が時折、ぷつりと鳴った。水の底から引かれた一瞬の感覚が、指先にまだ残っていた。

翌日、母の実家に戻ると、叔母が「よう帰ったな」と笑い、麦茶の汗が机に輪を作っていた。叔父は奈良の地方紙を読んでいて、ページをめくる手がふと止まった。「ほー、あそこで子供溺れて死んどるわ」と言った。その声が妙に乾いていた。叔母が「えー」と応じる。

その記事に記されていた時間と場所が、私が沈んだ正確な位置と重なっていた。サマーキャンプの子供が、遊泳中に気づかれずに沈み、翌朝見つかったという。親父は「おまえ、足引っ張られたんちゃうか」と冗談めかして言ったが、声色は冗談の体温ではなかった。

叔父は、「あそこ三つの流れ入ってきとるやろ。温度差で身体ショック受けることあるらしいで」と付け足した。私は曖昧にうなずきながら、記憶の奥に沈んだ青い空の色を思い出していた。あれは空の青ではなく、水底から見上げる青に近いのではないか、とふと脳裏をかすめた。

叔父の言葉が途切れたあと、茶の間の空気はゆるく弛んだ。

蝉の声が網戸越しに入り込み、室内の薄暗さとぶつかり合っていた。私は麦茶の氷がひとつ溶け落ちていく音に、不思議な湿りを感じた。今朝まで水に沈んでいたという子が、どんな姿で見つかったのか、新聞には詳しく書かれていなかった。ただ「翌朝発見」とだけある。そこにある空白が、逆に想像を押し広げてしまう。

ふと手のひらに、あの指に絡んだ柔らかな感触が蘇る。思い返すと、あの感触は水草のたわみではない。もっと線が細く、しかし存在の温度だけは確かだった。だが、もし本当に何かが触れたなら、私はもっとはっきり覚えているはずだ。そう思う一方で、思い出すほど曖昧さが増す。輪郭をつかもうとすればするほど、指が水をすくうように逃げていく。

夕食の頃、祖母が山菜を盛りつけながら「無事でよかったなあ」と言った。その声が背中を撫でるように優しいのに、その優しさにどこか落ち着かないものを感じた。箸を持つ指先が震える。祖母は気づかなかった。私はなんとなく、自分の影がひとつ分遅れて動いている気がした。障子の向こう、縁側に置かれたスリッパの影も、形が微妙にいびつに見えた。

寝る前、夏の夜の湿った風が布団の端をめくった。電灯の紐がかすかに揺れる。私は横になりながら、天井板の木目が波のように見えるのをぼんやりと眺めていた。目を閉じると、真っ先に浮かぶのがあの青。水中から見上げたのではなく、地上にいながら水に沈んだ感覚。あの青は、空の表面ではなく裏側だったのかもしれないと、理由もなく思えてくる。

夜半、ふいに足先がひんやりとした。布団の中で、指の一本一本に水が染み込むような冷たさが走る。寝返りを打つと、畳の目の奥から湿り気が立ち上がる気がした。祖母の家は古く、雨の日などは湿気ることもあったが、それとは違う。じっとりした冷えが足首まで絡みつく。水に沈んだときのあの感触にどこか似ていた。

目を開くと、縁側のほうに淡い光が揺れている。月光にしては位置が低い。そっと身を起こすと、板張りの廊下がうっすら光を帯びて、そこだけ水面のきらめきのように見えた。視界がまだぼやけているせいか、光の粒が揺れているように感じる。耳の奥で、水面を叩く小さな音がした。実際には音などしていないのに、鼓膜が勝手に記憶を再生させているようだった。

廊下まで歩いていくと、足裏に冷えが移る。木の板のはずなのに、沈むような感触があった。廊下の先にあるガラス戸に、月明かりとは違う色が映り込む。濃い青。さっきまで天井の裏側に閉じ込められていたあの青だ。部屋の明かりを消したはずなのに、外の闇よりも深い青が、ふわりとガラスの内側に浮かんでいる。

ガラスに近づくと、自分の影がほつれていた。輪郭が波紋のように揺れ、肩のあたりが少し伸びている。心臓が跳ねた。足下の冷えがふっと強まり、皮膚に吸いつく。目を凝らすと、ガラス越しの青の中で、何かが揺れているように見えた。形は掴めない。泡にも似ているし、人影にも似ている。距離がつかめないのに、それがこちらを向いた気がした。

そのまま視線が動けなくなる。あのとき水中で身体が止まったのと同じ感覚。声も出ない。ガラスに映る自分の顔を見ると、目元の少し下に、細く白い筋がのびているように見えた。水に濡れているのか、光の反射なのか判別がつかない。その筋がふっと揺れ、まるで誰かの指がそこをなぞったように見えた。

その瞬間、背後でふわっと畳が鳴った。誰かの重さがのったようなわずかな沈み。振り返れない。振り返りたくない。首筋に風のようなものが触れた。川の匂いがした。冷たいのに、どこか人体の温度に近い湿りが混ざっている。記憶が脈打つ。自分の手に絡んだ細い抵抗。あれは、水ではなかったのだろうか。

気づくと私は布団の上に戻っていた。いつ移動したのか記憶がない。身体は汗ばみ、手のひらがじっとりと湿っている。夢ではなかった、と言い切る材料も証拠もない。ただ足先の冷たさだけが、現実の残り香のようにくっきり貼りついていた。

私はしばらく、天井を見つめた。木目の線が、さっきの青い揺れと同じリズムを刻んでいるように感じる。目を閉じると、青がゆっくりと押し寄せてきて、視界の内側に沈んでいった。

翌朝の光は薄く、山の端にひっかかったまま動かなかった。

祖母の家の窓枠に射し込むその白っぽい光のせいで、部屋の空気が少し冷たく感じられた。私は布団から足を出すと、足裏にまだあの湿りが残っている気がした。夢なのか、現実の切れ端だったのか、判別しようとすると胸の奥がざわつく。

台所からは味噌汁の匂いが流れ、日常の音がひとつずつ重なってくる。なのに私は、食卓についた瞬間、何かを忘れたように喉が乾いた。叔父が新聞を畳む音が、昨日と全く同じ速度だった。ふと感じた既視感に、背中を汗がつっと伝う。その汗が、川の水に似た温度に思えてしまう。

「昨日のとこ、今日もニュースになっとるで」と叔父が言った。ページをこちら側に向ける。そこには、溺れた子がキャンプの団体から一時的に離れて、戻らなかったという追加情報が載っていた。周囲の誰も気づかず、声も聞かなかった、と書かれている。

私は指先が冷えるのを感じた。あの指に絡んだ感触。あれは、必死に誰かが掴んできたのではないか。そんな想像が、だんだん形を帯びていく。もしその子が一瞬だけ浮かび上がったとき、見上げた景色があの青で、その青が記憶に貼りついたまま沈んでいったのだとしたら……。胸が重くなる。

母が「無理せんと、今日は家でゆっくりし」と言ったが、私は黙ってうなずいた。音のすべてが厚ぼったく感じた。蝉の声も、食器の触れ合う音も、なぜか水の底から響いてくるような鈍さがあった。自分の身体だけが、世界の中でわずかに遅れて動いている。

昼過ぎ、家の裏にある小さな溝の水音にひかれて縁側に出た。水は浅く、ただの生活用水の流れなのに、光の反射が昨日見た青と少しだけ似ていた。目を細めると、流れの底に淡い影がひとつ揺れた。小魚かもしれないし、ただのゆらぎかもしれない。それでも、私はなぜか息を止めた。影がゆっくりとこちらに向くように見えたからだ。

息を吐いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。青い空を思い出した。あの青が、単なる空の色ではなかった気がする。あのとき私が沈んだ瞬間、見上げた青はまるで水の膜が張られた向こう側にあって、自分だけが境界のどちらにいるのか分からなくなるような質感だった。

夕方、帰る支度をしていると、祖母が「またおいでよ」と笑った。その笑顔で少しだけ呼吸が楽になった。玄関の扉を閉めるとき、ふと足下を見た。砂利の隙間に、小さな水滴のようなものが光っていた。なぜ雨でもないのに濡れているのか分からない。それはただの見間違いかもしれないのに、指先がまた冷えた。

車の窓から山の稜線を見上げると、あの日と同じように青が突き抜けていた。だが、その青の奥に、もうひとつの層がある気がした。もし、あの日、水に沈んだ子が最後に見たものがこの青ならば、その層の向こうにまだ留まっているのではないか。そんな考えが、ふっと胸の隅に浮かぶ。

自分が掴まれたのではなく、私のほうが掴んでしまっていたのではないかという思いが、不意に喉に引っかかる。沈むとき、指が触れたあの短い感触。それを求めたのは、向こう側ではなく自分のほうだったのかもしれない。助かりたいと願ったその瞬間、境界の上に重なった影を、私は無意識に掴んだのかもしれない。

あの青が今も目の裏に沈んでいるのは、向こうからの記憶ではなく、あの瞬間に私自身が見てしまった裏側の景色だからだ。空の器の底に触れたのは、きっと私のほうだった。

そして今でもときどき、夏の日の強い青を見ると、胸がひやりとする。あの場所の流れの下に、誰かの視線がまだ残っているような気がするからだ。
もし見ているのが自分ではなく、あの子のほうだったとしたらという考えが、たまにそっと浮かんでくる。
そのときだけ、世界の色がわずかに反転する。

[出典:30 :本当にあった怖い名無し:2009/01/13(火) 20:36:30 ID:PA0TOztm0]

Sponsored Link

Sponsored Link

-短編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2025

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.