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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

見上げたのはどちらか nw+

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今でも、あの夏の青を思い出すと、胸の奥に水が溜まる。

奈良の吉野の谷へ降りた日の空気は、生ぬるく重かった。吉野川沿いのキャンプ場は、川幅が一瞬だけ緩む場所にあった。本流は速いのに、そこだけはせき止められたように水が張り、人工の池のような平面を作っている。岸は白い小石で、日差しを受けて鈍く光り、踏みしめると乾いた音を立てた。

水は青いが、澄んではいない。底を隠す薄い濁りがあった。

私は泳ぎに自信があった。足を入れた瞬間、膝下を刺す冷えが走る。それが太ももあたりで急に緩み、ぬるい層に変わる。温度が段になっている。身体を預けると、頭上の空がやけに硬質に見えた。触れればひび割れそうな青。

何度か往復したあと、異様な感覚に包まれた。息は乱れていないのに、背骨の根元が重くなる。水音が遠い。ふと見上げると、空が沈んでいた。高くあるはずなのに、底のような奥行きがある。吸い込まれる。

その瞬間、手足の指令が途切れた。力が抜けたのではない。届かない。耳の奥に圧がかかり、呼吸の形が崩れる。次の瞬間、私は底へ向かっていた。肺は動いているのに、空気が入らない。水の匂いが甘い。

上で青が遠のく。

指先が、何かに触れた。

藻ではない。細い。柔らかいのに、確かな抵抗がある。巻きつくような感触。人の腕に似ているが、温度の輪郭が曖昧だった。

そこで途切れる。

気づけば父に抱え上げられ、岸に寝かされていた。喉が焼け、耳の奥で水音だけが響く。父は「どうした」と言ったが、私には答えられなかった。あの感触を説明する言葉がなかった。

翌日、母の実家に戻ると、叔父が地方紙を広げていた。「あそこで子供が溺れとる」と乾いた声で言う。時間と場所が、私が沈んだそれと重なっていた。団体の中の一人が、遊泳中に姿を消し、翌朝見つかったという。

誰も声を聞いていない、と書かれていた。

父は冗談のように「足引っ張られたんちゃうか」と言った。叔父は「流れが三つ入っとる。温度差で身体が効かんことある」と続けた。私はうなずいたが、納得はしていなかった。あのとき触れたものが、単なる水の層だったとは思えなかったからだ。

夜、祖母の家で布団に入ると、足先が冷えた。畳の下から湿りが立ち上る。目を開くと、廊下の先のガラス戸に、濃い青が映っている。月光ではない。外の闇より深い青。

近づくと、自分の影が波紋のように揺れていた。肩の輪郭が、わずかに伸びている。ガラスの内側の青の中で、何かが揺れた。泡にも、人影にも見える。距離が分からないのに、こちらを向いた気がした。

身体が止まる。

背後で畳がわずかに沈んだ。振り返れない。首筋に、川の匂いを帯びた風が触れる。冷たいのに、どこか人の体温に近い湿りが混ざっている。

指先に、あの感触が戻る。

私は掴まれたのか。

それとも、掴んだのか。

翌朝、叔父は新聞の続きを読んでいた。溺れた子は一時的に団体から離れ、戻らなかったとある。誰も気づかなかった、と。

私は自分の指を見た。あのとき、水中で伸ばしたのは、助けを求める手だったのか。それとも、何かを求めた手だったのか。

昼過ぎ、家の裏の溝の水面に、青い光が揺れた。浅い流れなのに、底が遠く見える。そこに、淡い影がひとつ重なった。私が息を止めると、影も止まる。

視線が合った気がした。

あの子が、最後に見上げた青。

それは空ではなく、水の裏側だったのではないか。

そしてあの瞬間、境界に重なったのは、向こうの手ではなく、私のほうだったのではないか。

今でも、夏の強い青を見ると胸が冷える。

あの場所の流れの下に、誰かの視線が残っている気がする。

それが向こう側のものなのか、あの日、水を掻いた自分のものなのか、私は決められない。

ただ、ときどき思う。

見上げていたのは、どちらだったのか、と。

[出典:30 :本当にあった怖い名無し:2009/01/13(火) 20:36:30 ID:PA0TOztm0]

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