小学生の頃の自分を思い返すと、胸の奥がむず痒くなる。
悪ふざけと衝動だけで動いていて、今思えば自分でも呆れるような行動ばかりしていた。
あの日もそうだった。
八月の、夕立の後のむっとした熱気が部屋にこもっていた午後。畳の上に寝転び、買ったばかりの漫画を読み耽っていたとき、不意に気付いた。
押し入れの天袋──上の段のさらに上に、小さな扉がある。
それまで何度も部屋にいたはずなのに、そんなものがあることに一度も気付かなかった。
漫画を放り出し、むくりと立ち上がる。畳に素足をぺたぺた鳴らしながら近づき、手を伸ばして扉を押すと、かすかな抵抗のあと、キイ、と短く鳴って開いた。
そこには暗闇がぽっかり口を開けていた。
踏み台代わりの椅子を引き寄せ、ぎいと音を立てながら昇る。覗き込んだ先には、意外な広さがあった。腰を屈めれば入れそうどころか、まっすぐ立てそうな高さ。だが、真っ暗で奥行きは分からない。
わけもなく胸が高鳴った。これは自分だけの発見だ。……いや、ひとりで抱えるより、あいつに見せびらかしたほうが面白い。
翌日、学校から帰ると真っ先にゲンチーを呼びに行った。あだ名で呼ぶのが当たり前の幼馴染。彼の家は代々寺を営んでいる。
「な、すげぇだろ?」
「よっちゃん、これ……入れんの?」
「知らん」
ゲンチーは興奮気味に「懐中電灯持ってくる!」と言い残し、走って自分の家に帰っていった。
しばらくして戻ってきた彼の手には、懐中電灯が二本。スイッチを入れると、白い光が埃を帯びて空気に刺さるように伸びる。
扉を押し上げて、その光を中へ滑り込ませた。
……そこには、何もなかった。埃ひとつない。ネズミの糞もない。ただ、光を吸い込むような黒い壁と黒い床、そして黒い天井が、沈黙していた。
「入ってみるか」
そう言って身を屈め、中へ足を踏み入れた。床は薄い板だろうと思ったが、妙にしっかりしている。ゲンチーも続いて入ってきた。
歩き回ってみる。けれど何もない。ただ広い。
不思議だった。押し入れの上なんて、せいぜい数歩で端に届くはずだ。なのに、歩けども歩けども壁らしい壁がない。方向感覚も距離感も、妙に掴めない。
その時、後ろから鈍い音がした。ゲンチーが転んだのだ。
「いてっ……」
「大丈夫か?」
振り向いたときの彼は、最初に見せた笑みが、一瞬で青ざめた顔に変わっていた。
「よっちゃん……早く出るぞ」
「なんだよ、急に」
「これ……黒いやつ、全部お経だ……」

ぞわり、と背筋に冷気が走る。
ゲンチーは子供の頃から、遊び半分に父親にお経の読み方を習っていた。読むだけでなく、意味も少しは分かるらしい。その彼が、壁も床も天井も、そこに書かれた無数の文字を「読める」と言ったのだ。
「行くぞ!」
叫び声に我に返る。出口までは数歩のはずだった。だが暗闇の奥から何かが追ってくるような気配がして、二人で必死に走った。
椅子に飛び降り、押し入れの戸を乱暴に閉める。息が喉で詰まり、胸が焼けるように痛かった。
「……なんなんだよ、あれ」
「父ちゃんに聞く」
二人でゲンチーの家──お寺へ駆け込んだ。
「おとうさーん!」
玄関に現れた父親は、こちらを見るなり目を見開き、そして怒鳴った。
「お前ら、なにやってた!」
有無を言わせず腕をつかまれ、奥へ引きずられる。畳の広間に通され、服を脱がされた。背中に筆の感触。墨の冷たさ。その上から容赦なく水がかけられる。
首に数珠をかけられ、耳元で低く重い声が響き続ける。お経だ。何度も何度も水をかけられ、半日近く座らされた。
儀式が終わると、父親は真剣な目で言った。
「いいか、今日のことは忘れろ。思い出しても、すぐに忘れろ」
母に迎えられると、泣きながら抱きしめられた。祖母は「よかった、よかった」と繰り返すだけ。
それからしばらく、近所の大人が自分を避けるようになった。ゲンチーも同じだった。理由は分からない。だが、あのことについては二人とも口にしない。言葉にした瞬間、何かが呼び戻されるような気がするからだ。
──先日、久しぶりに実家へ帰った。
あの押し入れを覗くと、扉はまだあった。しかし、無数の釘で打ち付けられ、木の板で覆われていた。
何かが向こうで待っている気配は、今も消えていない。
[出典:219 : 投稿日:2003/06/28 11:15]