大学三年の夏休み、俺たちは“あれ”をやることにした。
四国八十八箇所――ただし逆に巡る、いわゆる「逆打ち」だ。
誰が言い出したかはもう忘れたけど、きっかけは明らかにホラー映画だった。
『死国』ってやつ。死者が蘇る、とかなんとか。
もちろん俺も、YもAも、そんなこと本気で信じてたわけじゃない。
……いや、ほんの少し、信じていたかもしれない。
死者が蘇るだの、地元の爺さん婆さんが「罰が当たる」だのと言って渋い顔をするって話も妙にリアルで、
観光地なのに不気味さを纏うその八十八の札所を、逆に巡るという行為は、どこかで“禁忌”を踏みにじるような背徳感があった。
行き倒れる者もいたという巡礼路。
死装束のような巡礼服。
それをあえて逆から辿ることで、なにか“戻ってはいけないもの”まで引き連れてしまうような……
そんな想像が俺たちには心地よかったのだ。
俺たちは、自転車で四国に渡った。
車は味気ない。徒歩は無理。自転車がちょうどいい、そんな理由だった。
八十八番目の札所、香川県S市の大窪寺からスタート。
三人でうどんを食って、テンションは最高潮。
炎天下に汗をだらだら垂らしながらも、パンクに耐え、蚊の猛攻をかわしつつ、寺を巡る。
二十ヶ所ほど回り終えた頃、愛媛県に入った。
商店でみかんを買って、ある寺で休んでいるとき、Yが言った。
「なあ……あのおばちゃん、前の寺でも見なかった?」
言われて目をやると、確かに中年の女が一人。
みすぼらしい格好で、大きな鞄を持ち、巡礼服らしき白衣は泥と埃にまみれて原型をとどめていない。
だが正直、俺には見覚えがなかった。
「気のせいじゃね?」
「いや、見たと思うんだけどな……」
「だって、逆打ちしてるやつなんて他にいねーだろ。まさか、徒歩で俺たちに追いつくとかありえんし」
「だよなー。でもさ……いや、やっぱ気のせいか」
それでそのときは終わった。
その後も俺たちは軽口を叩きながら寺を回り続けた。
ポンジュースうめえ、とか、巡礼者は熱中症で死ぬだろこれ、とか。
やがて夜、四十番台のある寺――B寺という札所で一泊することになった。
Yと俺は、テント代わりに張ったシートの上で星を見ながらだらだら過ごしていた。
Aは爆睡。そいつはどこでも即寝できるやつだった。
午前零時が近かったと思う。
なぜか眠気がまるで来ない。
俺はふと、寺の山門の方に目を向けて――息を呑んだ。
……誰か、いる。
人影がひとつ、山門をくぐって入ってくる。
こんな時間に参拝だなんて、どう考えてもおかしい。
しかも、姿がはっきりしてくると、俺は心臓がどくんと跳ねた。
あの女だ――
あの、ボロボロの服と大きな鞄を持った中年の女。
「おい……Y、見ろ。あれ……」
「あー……やっぱそうだよな、前に見たやつだ」
俺たちは顔を見合わせた。
いくらなんでも、おかしい。
俺たちは自転車、あの女は徒歩。
同じ逆打ちコースを進んでいて、追いつかれるのはまずありえない。
しかもこんな時間に、女一人で参拝するなんて、どう考えても“普通”ではない。
「話しかけてみようか」
そう言ってYは立ち上がった。
止めようとしたが、俺も結局その後を追った。怖さより、知りたい欲が勝ったんだ。
「すいませーん、ちょっといいですかー」
Yの声に、女は振り返った。
警戒はしているが、逃げるそぶりはない。
鞄をぎゅっと抱きしめながら、かすれた声で返事をする。
「はぁ……なんでしょう?」
見た目は生きた人間だ。
だが、どこか夢の中にいるような、焦点の合わない目をしていた。
「こんな時間に、どうしてここへ?」
「逆打ちを、しているんです……」
「急いでるんですか?」
「ええ、どうしても、急がないといけなくて……」
「大丈夫ですか、体とか」
「私は……大丈夫です」
Yはさらに話を続けた。
「僕らも同じように逆打ちしてて、何度か前に追い抜いたと思うんですけど……」
「この道には……慣れていますから」
その一言が、妙に引っかかった。
慣れている……?
何に?
短いやり取りの後、女は本堂のほうへゆっくりと歩いていった。
「な? ただのちょっと変わった人だって」
「……そうだな」
俺もYも、少し安心して、寝袋に潜ろうとした――そのとき。
カツーン……カツーン……
本堂の奥から、乾いた音が響いた。
何かを――そう、木を釘で打ちつけるような音。
俺たちは顔を見合わせ、音のする方へ駆け出した。
本堂の前に立ったときには、音は止んでいた。
女が、槌のようなものを手に、佇んでいた。
そして、その視線の先――本堂の柱に、木の札が打ちつけられていた。
禁止されているはずの、木札。
現代では紙札を納めることが一般的だ。
木札に釘を打つのは、いまや“呪い”とまで言われるような行為。
「おい……マジかよ」
俺が言うと、女はゆっくりこちらを見た。
そして、俺たちの間を何事もないように通り抜ける――
そのとき、女は小さく呟いた。
「もう少し……もう少しで……今度こそ……」
俺の中で、あるイメージが明確になった。
女が着ていた巡礼服、それは白かったはずの衣が、泥と年月で褪せ、擦り切れて、原形を留めていない。
「この道に慣れています」
その言葉が、頭の中でこだまする。
何度も――
何度も、逆打ちを繰り返しているのだ。
その鞄の中には……いや、考えたくもない。
きっと、誰かを“戻そう”としている。
何度でも、何度でも。
俺はYに自分の想像を語った。
それから旅をやめる決意をした。
次の日、俺たちは四国を離れた。
Aだけが不満そうだったが、理由は言えなかった。
あの女がいまも逆打ちを続けているのか、俺にはわからない。
けれど、もしもあなたが四国を巡ることがあって、
“逆に巡っている”誰かに出会ったなら――
その背中に、擦り切れた文字が浮かんでいないか、よく見てほしい。
そして、その人が「この道に慣れている」と言ったら、
……どうかそれ以上は、深入りしないでほしい。
[出典:294 :本当にあった怖い名無し:2006/12/11(月) 19:41:11 ID:euciTnRP0]