走り出す直前に吹いた風の音を、今でも思い出すことがある。

秋の夜の、校庭を横切るだけの風だったはずなのに、その音を聞くと背中に汗がにじむ。風に混じって、あの低い声まで戻ってくるからだ。
「おまえの番だよ」
高校二年の秋、私はそれまで所属していた部活をやめ、放課後を持て余していた。何か別のことを始めたいというほど前向きでもなく、ただ学校の中に自分の名前が残るような役目が欲しかったのだと思う。そんな時、校内放送で「陸上部、補欠の助っ人募集」という言葉を聞いた。
足が速いわけではない。それでも補欠なら名前くらいは名簿に載るし、教師の目にも多少は留まるかもしれない。今にして思えば、応募した理由はその程度のものだった。
職員室の前で迷っていると、細身の男の教師が声をかけてきた。名札には「天沼」とあった。表情の乏しい、妙に低い声の教師だった。
「君、走れるか?」
返事をする前に、天沼は手元の紙へ私の名前を書き込んだ。
競技は駅伝だという。ただし正式な大会ではなく、近隣校が集まって行う交流試合らしかった。説明を聞いていて引っかかったのは、開始時刻が日没後になっていることだった。
「夜にやるんですか」
「夜の方が集中できるだろう?」
天沼は笑った。口元だけが動いて、声は出なかった。
当日、校庭の隅に集合した私たちはマイクロバスに乗せられた。補欠として集められたのは私を含めて五人だったが、車内で会話はほとんどなかった。声をかけても返事が遅く、一人は座席に座ったまま、ずっと自分の手のひらを見ていた。
バスはいつの間にか舗装されていない道へ入っていた。窓の外には街灯も民家の明かりもなく、車内灯を映したガラスに自分たちの顔だけが並んでいる。どれほど走ったのか分からなくなった頃、天沼が「着いたぞ」と言った。
降りた先には、使われていない学校があった。傾いた門柱に古い表札が残っていたが、文字はほとんど剥がれ、「陽」と「校」だけが読めた。
「ここでやるんですか?」
「そうだ。伝統のある場所でな」
天沼はまた、声を立てずに笑った。
校庭には簡単なトラックが作られ、数本の蛍光灯が等間隔に点いていた。その明かりの下に、懐中電灯を持った男たちが立っている。審判なのだろうと思ったが、全員が古びた学生服を着ていた。暗さのせいか、顔のある位置だけがうまく見えなかった。
説明もないまま、私はスタート地点へ押し出された。隣にいた生徒へ何か聞こうとして振り向くと、そこには誰もいなかった。
「おまえの番だよ」
背後から声がした。同時に腕へ冷たいものが触れた。
赤黒いタスキだった。ところどころ染みがあり、濡れた布のように重い。誰が掛けたのか確認する間もなく、「位置について」という声が校庭に響いた。
前を走る生徒が動いたので、私も走った。
最初の一周は、ただ暗いだけの校庭だった。二周目に入ると、さっきまで板で塞がれていた校舎の窓に、いくつか明かりが見えた。さらに回ると窓の数が増え、観客席のあるはずのない場所から拍手が聞こえた。
走っているうちに、奇妙なことに気づいた。
誰もタスキを渡さない。
前を走っていた生徒との距離は縮まらず、後ろから足音が近づいてくることもない。何周したのか分からなくなっても合図はなく、私は同じ校庭を回り続けた。呼吸が苦しくなり、脚が上がらなくなっても、蛍光灯の下に立つ男たちは動かなかった。
タスキを外そうとしたが、肩から引き抜けなかった。布をつかむと指先に湿り気が移った。走るたびに、それが少しずつ重くなっているように感じた。
何度目かに校舎の前を通った時、暗い窓の奥に人が並んでいるのが見えた。顔は分からない。ただ、こちらを向いていることだけは分かった。
足がもつれ、私はトラックの外へ倒れた。
地面に頬をつけたまま顔を上げると、すぐそばにも人が倒れていた。制服姿だった。首のあたりだけ、不自然に沈んでいた。
どこからか声がした。
「あいつ、交代しやがったな」
その瞬間、肩が軽くなった。
タスキが外れていた。
地面へ落ちた赤黒い布は、しばらく私の腕に触れていた。それから、誰かに引かれたように動いた。私は起き上がることもできず、それが暗がりの方へ消えていくのを見ていた。

観客席の方から拍手が起きた。
今度は、はっきり聞こえた。
目を覚ますと、自宅の布団の中だった。
腕には痣が残っていた。あのタスキが触れていたところに沿って、赤黒い線が走っていた。夢だったと思うには形が整いすぎていた。
学校へ行き、あの日一緒だった補欠の生徒について尋ねた。しかし名簿に名前はなく、担任にも「そんな生徒はいない」と言われた。職員室を覗いても、天沼という教師の名札は見つからなかった。
校舎裏の掲示板で古い新聞記事を見つけたのは、その日の放課後だった。地域の出来事を扱った古い切り抜きで、紙は黄色く変色していた。
昭和五十六年、夜間陸上大会中に生徒五名が不審死。指導教員の天沼教諭は、その後行方不明。
記事には小さな写真が添えられていた。暗い校庭を走る何人かの生徒が写っている。印刷が潰れて顔までは分からない。
その端に、一人だけ背中を向けた走者がいた。
肩から赤黒いタスキを掛けている。その左腕には、新聞写真でも分かるほど濃い痣があった。
私は自分の腕を見た。
同じ場所だった。
あれ以来、その痣は薄くならない。
だから私は、あの夜、自分が無事に帰ってきたとは考えないようにしている。
タスキが外れたことと、競技から抜けられたことが、同じ意味だとは限らない。
[お題出典:https://note.com/tarahakani/n/ncdcca740e5e0]
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