妹は、ハンバーグを作るのがうまかった。
特別な材料を使っていたわけではない。玉ねぎを細かく刻んで、合い挽き肉に混ぜて、手のひらで何度も空気を抜く。焼く前に真ん中を少しへこませる。そんな普通の作り方だった。
ただ、俺が部屋から出てこない日でも、妹は皿に二つ乗せて、ドアの前に置いてくれた。
「冷める前に食べなよ」
そう言って、足音だけを残して行く。
俺には、妹しかいなかった。
妹には彼氏がいた。弘道という、線の細い男だった。少し不安定なところはあったが、俺みたいな引きこもりにも普通に話しかけてくれた。車で外へ連れ出してくれたこともある。
だから、妹が泣きながら「捨てられた」と言ってきた時、俺は妹のためというより、自分のために腹を立てた。
弘道に電話をして、会う約束をした。
喫茶店に来た弘道は、別人みたいになっていた。顔に青あざがあり、首元には爪で引っかいたような跡が残っていた。右腕は吊られていて、彼は珈琲カップにも触ろうとしなかった。
「階段で転びました」
そう言ったが、目は合わなかった。
少し遅れて女が来た。
徳子と名乗った。きれいな女だった。白い服が似合う、雑誌から抜け出したような顔で、笑うと歯並びまで整っていた。
けれど、席に着いた瞬間、テーブルが細かく震えた。
最初は地震かと思った。
弘道の膝が震えていた。
徳子は俺の話をほとんど聞かなかった。弘道の代わりに答え、弘道の代わりに謝り、弘道が口を開こうとすると、笑ったまま彼の足を踏んだ。
帰り際、徳子は言った。
「もう連絡しないでくださいね」
言い方は丁寧だった。
その夜、妹に「もう関わるな」と伝えた。
妹はうなずいた。俺も、それで終わったと思った。
終わらなかった。
数日後、弘道から電話が来た。声が震えていて、泣いているのか笑っているのか分からなかった。
「少しだけでいいから、家に入れてください」
妹が毛布を持って外へ走った。
門のそばにいた弘道は、ほとんど裸だった。裸足で、背中に古い傷と新しい傷が重なっていた。首には、何かを強く巻かれていたような赤い跡があった。
弘道は玄関に入るなり、土下座した。
「すみませんでした。すみませんでした」
それしか言わなかった。
妹は弘道を抱きしめて、「あなたは悪くない」と繰り返した。
その日の夕飯に、妹はハンバーグを作った。
弘道は一口食べて、泣いた。妹も泣いた。俺はその光景を見ながら、久しぶりに家の中が人の家みたいだと思った。
それからしばらく、弘道はうちにいた。
両親は仕事で海外に出ていることが多く、家には俺と妹と弘道だけだった。妹は大学を休みがちになり、弘道は外へ出なくなった。俺は買い物も配達で済ませ、電話はなるべく取らないようにした。
徳子からは何度も電話が来た。
最初は泣いていた。
「弘道を返してください。お願いします」
次は笑っていた。
「そこにいますよね」
最後には、低い声で俺の名前を呼んだ。
俺は電話線を抜いた。
翌朝、犬小屋の前で妹が叫んだ。
うちの犬が死んでいた。
その時、俺は警察に電話しようとした。けれど妹が止めた。弘道が見つかったら、また連れて行かれる。徳子の父親は危ない人だと、弘道が言っていた。警察にも知られたくないことがあるのだと。
今なら分かる。
その場で通報するべきだった。
けれど、その時の俺は、証拠を残すことしか考えなかった。写真を撮り、血を洗い、壊れた犬小屋を業者に直させた。家の中にいる三人だけで、なかったことにしようとした。
なかったことにはならなかった。
夜、門のチャイムが鳴った。
モニターには、知らない男たちが三人映っていた。
「弘道君、いますよね」
俺がいないと答えると、男たちは門扉を揺すり始めた。
「監禁してるんじゃないんですか」
大声だった。近所に聞こえるように、わざと叫んでいた。
妹が警察を呼んだ。男たちはパトカーの音が近づくと逃げた。
警察は男たちを追わず、うちに来た。
俺は玄関先で適当な説明をした。弘道のことは話さなかった。妹が後ろで首を振っていたからだ。
警察が帰ったあと、弘道は廊下に座り込んで、何度も頭を壁にぶつけた。
妹はそれを抱き止めた。
俺は見ているだけだった。
二週間ほどして、少しだけ落ち着いた。
電話は止まり、門の前にも誰も来なくなった。妹は弘道と近所まで出かけるようになった。俺は反対したが、妹は「このまま家の中にいたら、弘道が壊れる」と言った。
その日、妹は俺のために弁当を作ってくれた。
ハンバーグが二つ入っていた。
「帰ったらまた作るから」
妹はそう言って出て行った。
夜八時過ぎ、妹からメールが来た。
弘道がいない。
それだけだった。
電話をかけると、妹は泣きながら「あの女だ」と言った。俺はタクシーで向かった。駅前のロータリーで妹を見つけた時、妹は自分の腕を抱えて震えていた。
弘道は、その日から消えた。
警察は事件として扱わなかった。成人男性が自分の意思で出て行った可能性がある。そう言われた。
弘道の母親にも連絡がつかなかった。大学では、しばらくして自主退学の手続きが出ていた。アパートの大家は、きれいな女が来て、部屋の片付けも修繕費も全部払っていったと言った。
名前は覚えていないらしい。
「感じのいい人だったよ」
大家はそう言った。
その日から、妹は少しずつ壊れていった。
電話が鳴ると飛び起きる。男の声がすると吐く。俺が弘道の名前を出すと泣く。けれど、ハンバーグを作る日は少しだけ普通に戻った。
ある夕方、買い物中の俺に妹から電話が来た。
声が明るかった。
「明日、ハンバーグ作るね」
俺は嫌な感じがした。
「どこにいる」
「びっくりさせてあげる」
電話はそこで切れた。
妹はその夜、見つかった。
詳しいことは書かない。
見つかった時、妹は声をなくしていた。病院で医者にいろいろ聞かれたが、妹は何も答えなかった。子供のように毛布を握って、俺を見るたびに首を横に振った。
両親は帰国した。
父は俺を殴った。母は泣いた。二人とも、数日後にはまた仕事へ戻った。
妹は別の病院に移った。
今の妹は、時々笑う。こちらの言葉にうなずくこともある。友達とは少し話すらしいが、俺の前ではほとんど声を出さない。
ただ、病院の食事にハンバーグが出ると泣く。
カレーでも泣く。
から揚げでも泣く。
妹の友達は、そんな時、弘道の写真を見せる。妹はそれを見ると泣き止む。写真の弘道は、まだ傷のない顔で笑っている。
あれから何年か経った。
ある日、妹の友達たちと一緒に、妹を遊園地へ連れて行った。車椅子を押して、園内をゆっくり回った。妹は観覧車を見上げて、子供みたいに手を叩いた。
その帰りだった。
売店の前で、徳子を見た。
白い服を着ていた。
昔と同じように、きれいだった。
徳子は小さな男の子の手を引いていた。三歳くらいだろうか。男の子はチョコのついた口で笑い、徳子のスカートを握っていた。
俺は固まった。
妹の友達が俺の視線に気づき、すぐに妹の車椅子を反対へ向けようとした。
けれど、妹はもう見ていた。
妹は徳子ではなく、男の子を見ていた。
男の子がこちらを向いた。
俺は息が止まった。
笑い方が、弘道に似ていた。
妹はゆっくり手を伸ばした。声にならない声を出した。徳子はそれに気づき、俺たちのほうを見た。
一瞬だけ、徳子が笑った。
それから男の子の手を引いて、人混みの中へ消えた。
妹はその日から、またハンバーグで泣かなくなった。
病院に戻ってから、妹は久しぶりに俺の前で口を開いた。
小さな声だった。
「明日、作るね」
妹はもう料理なんてできない。
それなのに、次の日の朝、病室の枕元に、小さな紙包みが置かれていた。
中には、冷えたハンバーグが二つ入っていた。
看護師に聞いても、誰が持ってきたのか分からなかった。
妹はそれを見て、うれしそうに笑っていた。
俺は今でも、あの男の子の顔を思い出す。
弘道に似ていた。
でも、笑った時の目だけは、徳子にそっくりだった。