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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

地中の団子 n+

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この話を打ち明けると、必ず周囲が黙り込む。

それは、目の前にいる人間の輪郭が曖昧になり、私が語るその先に、凍てついた異様な場所が透けて見えるからだろう。

今でも、あの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。それは、石炭の煤が混じった、金属的な寒さと、微かに焦げ付いた小麦粉の匂いだ。

シベリア抑留。その言葉自体が、ある種の「終止線」を引いている。終戦から数年後、私の大叔父が帰国してからも、その線は消えることなく、彼の周囲を、そして一家の生活全体を、見えない壁として囲んでいた。

大叔父が帰国したのは、肌寒い晩秋だった。玄関の引き戸を開けた瞬間、それまでそこに漂っていたはずの醤油と味噌の、平和な匂いが一瞬で押し流された。代わりに広がったのは、先述の石炭と焦げた粉の異臭、そして、絶対零度のような沈黙だ。

当時の我が家は、祖父母と大叔父の三人暮らし。木造二階建ての、築四十年は経つ、軋む階段のある家だった。夜になれば、電球の光は弱く、縁側の磨りガラスを通る月光の方が、時に鋭く室内に影を落とした。

大叔父の部屋は二階の最も奥。そこだけは妙に空気が張り詰めていた。大叔父は、暖房を一切入れず、分厚い毛布を何枚も重ねて寝ていたが、寝息が異様に浅く、時折、唸り声にも似た、低く短い息遣いが天井を通して漏れてきた。

夜中に、庭の木々を揺らす風の音、遠くを走る列車の汽笛、それらの微かな生活音すら、大叔父の部屋からは完全に隔絶されているように感じられた。聞こえるのは、その張り詰めた空気が、微かに収縮したり膨張したりする音だけだった。

帰国して数ヶ月経っても、大叔父はほとんど喋らなかった。食事のときも、ただ俯いて、少しでも残すと罰せられるかのように、団子状に丸められた飯を噛んでいた。その咀嚼音は、まるで石を噛み砕くようで、聞いているこちらが顎の奥に鈍い痛みを覚えるほどだった。

唯一の安息は、朝方の、ほんの一瞬だけだった。東の窓から差し込む、薄い灰色の光が部屋全体を染め上げる時、大叔父は仏壇の前で、誰も知らない、外国の音のような読経を、掠れた声で唱える。その時間は、彼が肉体を持つ人間であることを、かろうじて示していた。

当時の私はまだ十歳ほど。

大叔父の存在は、幼い私にとって、巨大な影のようなものだった。恐怖、というよりは、理解できないものへの畏怖と、それに触れてはいけないという無言の命令に近い。

好奇心はあった。しかし、彼の身体から放たれる動物的な警戒感が、近づくことを許さなかった。彼の背丈は私よりも少し高い程度だったが、その身の詰まった体躯、特に首から肩にかけての、異様に硬質な筋肉の張りは、野生の熊を連想させた。

ある日、階段の下で、うっかり大叔父の足音を聞いてしまった。それは、地面を這うような、重心の低い、ほとんど振動に近い音だった。普通の人の歩行音ではない。極度の疲労と緊張の下で、体内のエネルギーを最小限に保つための、練り上げられた動きの残滓。

私はその時、彼が「人間」ではなく、「何か」として帰ってきたのではないかという、純粋な、しかし背徳的な推論を胸に抱いた。祖父母は、この沈黙と異様な雰囲気を「戦争の傷」として受け入れていたが、私には、その傷口から別の何かが流入しているように感じられた。

特に、食事の時の羞恥。大叔父が箸を運ぶ様を見ていると、自分の茶碗に盛られた温かい米飯が、急に贅沢で、汚らわしいものに思えてくる。彼が何を食べて、どう生き延びたかを知っているからだ。

ある晩、耐えきれず、自分の食事を残してしまった。祖母に叱責され、罰として、その冷えた残飯を全て平らげた。その時の胃の収縮と、大叔父の無表情な視線が交錯した瞬間、私は自分が彼とは違う世界にいることを突きつけられ、得体の知れない罪悪感に襲われた。

彼に何か聞いてみたい衝動に駆られたこともあったが、彼の瞳の奥に見える、遠く、冷たい光を見て、全てを呑み込んだ。それは、私のような温室育ちの質問が、触れてはいけないものだと知っていたからだ。その視線は、聞く者をも、凍てついた大地へ引きずり込む力を持っていた。

彼の存在は、私の幼少期において、常識という名の壁に空いた、一つの穴だった。そこから、異界の冷たい風が吹き込み、私の心は常にざわざわと波立っていた。そして、このざわめきこそが、後に起こる奇妙な出来事への、微細な準備であったと、今になって理解する。

出来事は、大叔父が帰国して一年目の冬に始まった。

きっかけは、彼が「食事」と呼ぶ、奇妙な習慣だった。

彼は、時折、裏庭の隅にある古井戸の近くに座り込み、小さな麻袋から、小麦粉を水で練っただけの団子を取り出して食べるようになった。それは、祖母が「消化に悪いから」と止めても聞かない、彼にとっての儀式のようだった。

ある日、その団子を作るための小麦粉が、保管していた場所から微量だが減っていることに、祖母が気づいた。鍵はかけていたはずだが、気のせいだろうと最初は流された。しかし、その現象は三日に一度のペースで繰り返された。

祖母は、夜中にそっと小麦粉を保管している納戸の前に、小さな鈴を仕掛けた。翌朝、鈴はそのままだったが、やはり小麦粉は減っていた。誰も見ていない。しかし、確実に何かがそこから持ち去られている

そして、その現象が続くうち、私は大叔父の部屋から、微細な音を聞くようになった。それは、深夜の、誰もが寝静まった静寂の中、「コリッ」「コリコリ」という、極小の硬いものが砕かれる音だ。まるで、誰かが石を噛んでいるかのような音。

好奇心と恐怖に駆られ、ある夜、私は階段を、呼吸すら止めてゆっくりと上った。大叔父の部屋の引き戸の前まで来て、耳を押し当てる。戸の向こうからは、相変わらずあの「コリコリ」という音が、一定のリズムで聞こえてくる。

そして、その音に混じって、微かな、しかし聞き覚えのある匂いが漂ってきた。焦げた小麦粉、金属的な寒さ……そして、土の匂い。乾いた、凍てついた土の匂いだった。

私は、息を吸い込むことすら忘れ、戸に手をかけた。その瞬間、部屋の空気が一気に収縮した。皮膚の毛穴が開き、全身の産毛が逆立つ。「見ているぞ」という、無言の、しかし確かな、熊のような威嚇を感じたのだ。

私は恐怖で立ち尽くし、五分ほどで逃げ帰った。翌朝、恐る恐る大叔父の部屋を覗きに行ったが、いつも通り布団が畳まれているだけで、異常はなかった。ただ、部屋の隅の畳の上に、直径一ミリほどの、白い粉の塊が、微かに残っていた。それは、小麦粉ではない。骨を砕いたような、硬い粉に見えた。

この出来事を祖父母に話すことはできなかった。それは、話すことで、大叔父が「何か」であるという推論を、現実のものにしてしまうような、決定的な恐れがあったからだ。私は、この秘密を、自分だけの重荷として抱え込んだ。

しかし、その夜以来、音がさらに近くなった。私の部屋の床下、または壁の内部から、あの「コリコリ」という音が、私の呼吸に合わせて聞こえてくるようになった。それは、大叔父が部屋の外で、あの儀式を行っているかのようだった。

音は日増しに強くなり、私の精神を削り続けた。

食事も喉を通らない。目を開けていても、その音と、凍てついた土の匂いが、脳の奥で再生される。

ある夜、私はもう耐えられなくなり、階下に降りて、祖母の寝室の戸を叩こうとした。その時、家の裏口から、金属的な「ガチャ」という音が聞こえた。大叔父が外へ出た音だ。

私は裸足のまま、震える足で裏庭へ向かった。外は薄曇りで、月明かりはない。風が冷たく、身体を芯から冷やす。古井戸の近くに、大叔父の黒い影があった。彼は、いつものように、しゃがみ込んで何かを食べている。

「大叔父さん……」

震える声で呼びかけた。影はピタリと止まり、ゆっくりと振り返った。その顔は暗闇に沈んでいたが、その瞳だけが、夜光虫のように、鈍く光っているのが見えた。

彼は何も言わず、ただ咀嚼を続けた。その口元から、「コリッ、コリッ」という、あの骨を砕くような音が、冷たい空気を伝って、直接私の鼓膜を震わせる。私は、その音と匂いの源を、この目で確かめなければならないという、破滅的な衝動に駆られた。

一歩、踏み出した。そして、視線が彼の口元に注がれる。彼は、白い塊を口に運び、それをゆっくりと、丁寧に噛み砕いていた。それは、小麦粉の団子でも、固い米飯でもなかった。

彼の口から見えたのは、微かに土色の、乾燥した塊。そして、噛み砕かれた時に、光に反射してキラリと光る、小さな、無数の破片。それは、かつて私が大叔父の部屋の畳の上で見た、あの硬い粉の塊、そのものだった。

そして、私は気づいた。あの「土の匂い」は、シベリアの凍土の記憶ではない。それは、彼が毎日、古井戸の側で掘り返している、この家の裏庭の土そのものだ。彼は、土を練り、何かを混ぜて、それを食べている。

彼は、私を見たまま、最後のひとかけらを「コチリ」と音を立てて飲み込んだ。その瞬間、彼の視線が、私の身体を貫通し、私の内側にある何かを、正確に捉えた。

大叔父は、立ち上がると、無言で私に近づいてきた。そして、私の耳元で、初めて、まともな言葉を発した。掠れて、しかし明確な、日本語だった。

お前も、いずれ、わかる

その言葉と、彼の吐息から漂う、焦げ付いた小麦粉と土の匂い。私は意識が遠のき、その場で倒れた。

翌朝、私は自室で目覚めた。すべてが、まるでひどい熱病の夢のように思えた。大叔父は、いつも通り二階の部屋にいた。

しかし、その日以来、私はあの音を聞かなくなった。そして、あの匂いも感じなくなった。すべてが消え失せたのだ。

数年後、大叔父は老衰で亡くなった。彼の亡骸は、小柄ながらも、その異様に締まった体躯を保ったままだった。

葬儀が終わり、彼の部屋を片付けた際、私は二階の部屋の畳の下に、小さな麻袋を発見した。中には、土と、白い粉が混ざった、あの硬い塊が、まだ残っていた。

私は、その塊を手に取った。乾いて、冷たかった。そして、強烈な土の匂いがした。私は、この証拠を祖父母に見せることも、捨てることもできなかった。代わりに、自分の机の引き出しの奥に隠した。

それからさらに十年が経った。ある春の夜、私は急に空腹を感じた。それは、普段の空腹とは違う、体の芯から来る、抗いがたい渇望だった。私は、無意識のうちに机の引き出しを開け、あの麻袋を取り出した。

手を伸ばし、あの塊を掴む。そして、それを口に運んだ

「コリッ」

小気味よい音がした。土の味と、何かを砕く微かな甘み。そして、私の口の中に、石炭の煤が混じった、金属的な寒さと、微かな焦げ付いた小麦粉の匂いが広がった。

私は、自分が何と同一化したのかを理解した。そして、この日から、私もまた、夜中に裏庭の土を掘り返すことを、やめることができなくなった。私にとって、それはではなく、生き延びるための、ただ一つの食事となった。私は、あの凍てついた場所から、彼の身体を通して帰ってきたのだ。

[出典:844 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/08/22 14:18]

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