部の奥山に、小さな集落があった。
あたしはそこで生まれたわけじゃない。幼いころ両親を亡くし、庄屋に引き取られた。二つ年上のお嬢さんの世話役として、同じ屋敷で暮らした。礼儀も読み書きも教えられたけれど、本当に覚えているのは、縁側で一緒に笑った時間だ。
あの人は、山の雪解け水みたいに澄んだ声で笑った。
あたしが十四になった頃、村で妙なことが続いた。
神仏を馬鹿にしていた男が山中で首の骨を折って死んだ。慣れた道で転ぶ者が増え、木から落ちる者もいた。大怪我ではない。だが続いた。
祟りだ、という声が広がった。
最初は誰も本気にしなかった。だが夜の灯りが増え、戸締まりが早くなり、子供が外に出なくなると、祟りはもう噂ではなくなった。
やがて、誰かが言った。
「鎮めるしかない」
若い娘を。
あたしは、その場にいた。
奉公人も村の男も、誰もあたしを見なかった。けれど視線はあたしのほうへ流れていた。両親のいない娘。よそ者。庄屋の血でもない。
そのとき、あたしは一度だけ、お嬢さんを見た。
あの人は、何も言わなかった。ただ、あたしを見ていた。
その夜、あたしは眠れなかった。布団の中で考えた。生きたいと思った。怖いと思った。お嬢さんは庄屋の一人娘だ。村の宝だ。あの人が選ばれることはない。絶対にない。
絶対に。
翌朝、あたしはお嬢さんの部屋へ行った。
雨戸の閂は下りていなかった。
布団は温かく、着物と草履が消えていた。枕元には山奥にしか生えない葉が一枚落ちていた。
あたしは、それを見て、すぐに気づいた。
昨夜、あの人はあたしの部屋に来た。
「怖い?」と聞かれた。
あたしは答えなかった。
あの人は、しばらく黙っていた。それから言った。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、聞かなかった。
あたしは、あの人の手を握らなかった。
止めなかった。
止められなかった。
朝、騒ぎになったとき、あたしは葉を拾い、袖に隠した。それを布団に戻したのは、あたしだ。
山から連れて行かれた証が必要だった。
祟りは神の仕業でなければならなかった。
拝み屋の婆さんが来て、神隠しだと言ったとき、あたしは何も言わなかった。婆さんは一度だけ、あたしを見た。何も聞かなかった。
社が建ち、お嬢さんは神になった。
生贄は消えた。
あたしは生き残った。
あたしは嫁に行き、子を産み、孫に囲まれている。
だが、あの葉の感触だけは忘れられない。
もしあのとき、あたしが「怖い」と言っていたら。
もし手を握り返していたら。
あの人は、山へは行かなかったかもしれない。
それとも、あたしを連れて行っただろうか。
社には今も参る者がいる。若い娘が祈る姿を見ると、胸がざわつく。
あの人は、今も守っているのだろうか。
それとも、待っているのだろうか。
あたしは、まだ答えを言っていない。
――誰を差し出したのか。
本当に、神様が選んだのか。
それを決めたのは、あの日そこにいたあたしたちだ。
そして、読んでいるあなたも、もし同じ場所に立ったら、きっと考えるはずだ。
誰なら差し出せるか、と。
[出典:婆ちゃんの話:2013/11/27(水) 13:17:24.18 ID:RILHj3XU0]]