僕が黒田に出会ったのは、高校一年の春だった。
政令指定都市ではあるが、中心街から少し外れると、急に時間の流れが鈍くなる街だった。家から三分歩けばローソンが三軒ある。どれも似たような白い光で夜を照らしていて、そこにいる人間まで同じ顔に見えるような場所だった。
黒田は背が高く、白くて、細かった。話し好きで、いつも人の輪の真ん中にいた。笑いながら場を回せるやつで、クラスでも目立つほうだった。だから六月のある晩、繁華街の交差点でそいつがひとりギターを弾いているのを見た時は、少し面食らった。

ガードレールに腰を預けて、信号待ちの人間も見ずに、淡々と指を動かしていた。騒がしく弾くでもなく、誰かに聴かせるでもなく、ただそこに立っていた。
近づくと黒田も僕に気づいて、同じように驚いた顔をした。
「何してんだよ」と聞くと、黒田は少し笑って、「夜ふらふらして弾くのが好きなんだ」と言った。
せがむと、カーペンターズの「Sing」を弾いてくれた。うまいなと言うと、黒田は少し困ったように笑って、「秘密にしてくれ」と言った。僕は珍しくその約束を守った。
その少し後、友人に肝試しへ誘われた。好きな子が来ると聞いて、軽い気持ちで乗った。場所を聞いて、妙な気分になった。事故で親子が死んでから、夜になると二人が見えると噂になっている交差点。黒田がギターを弾いていた、あの場所だった。
十一時を回った頃、一行で交差点に着いた。案の定、ガードレールのところに人影があった。黒田だった。
誰かが笑いながら、「ここ、親子の幽霊が出るんでしょ。怖くないの」と聞いた。
黒田は僕を一度だけ見てから、「俺、何も見ないよ」と言った。
その時だけ、背筋が冷えた。黒田があそこに何度も立っていることを知っているのは、この場では僕だけだった。なのに、あいつはなぜ僕を見たのか。
家に帰るなり名簿を引っ張り出して、黒田の番号を探した。PHSのボタンに指をかけた瞬間、階下から姉が呼んだ。
「黒田くんって子から電話」
その時の嫌な感じはいまだに忘れられない。こっちがかけようとした相手から先にかかってくるだけで、あんなに気味が悪いものかと思った。
受話器の向こうの黒田は、いつも通りの声だった。他愛もない話を少ししてから、急に黙った。それから、小さく言った。
「お前、もう一回見られてるんだよな。だから話す」
黒田が言うには、交差点には毎晩、男が立っているのだという。小さな娘を抱いて、助けを呼び続けている。救急車を呼んでくれ、娘がまだ息をしてる、誰か早く来てくれと、通る人間に何度も言う。誰も返事をしないと、男は少しずつ声を大きくする。怒鳴るわけでもない。ただ、聞こえる場所が近くなっていくのだという。
「放っておくと、ついてくる」
黒田はそう言った。
最初は帰り道で後ろから声がするだけだが、そのうち家の前に立つようになる。窓の外から呼ぶ。電話も鳴る。受話器を取ると、同じことを言う。
だから黒田は、毎晩あそこへ行くのだという。
「もうすぐ救急車が来ますよ」
「娘さんは大丈夫ですよ」
そうやって先に返事をすると、男はしばらく静かになる。何時間かすると泣きやんで、礼を言う。だが翌日になると、また最初からやり直しになる。
「毎日、同じことを言うのか」と僕が聞くと、黒田は笑わなかった。
「同じじゃない。少しずつ違う」
何が違うのか聞こうとしたが、黒田は続けた。
「この前、お前が来た時、あの人、お前のほう見てた」
喉がひりついた。僕はあの夜、黒田しか見ていない。少なくとも、そのつもりだった。
「それでさっきも、お前の横を見てた。だから、たぶん次はお前の家にかかる」
冗談だろと言えなかった。黒田の声が、そういう調子ではなかったからだ。
それから本当に電話が鳴るようになった。
毎晩ではない。忘れた頃に鳴る。深夜、決まって十一時過ぎ。出ると、男の声で「娘が苦しがってるんです」と聞こえる。遠くで信号機の音がして、車の走る気配が混じる。何も言わずに切ると、その晩は窓の外で誰かがしばらく立っている。
夏の終わり、黒田からまた電話があった。声がひどく掠れていた。
「今日、行けない」
熱があるらしかった。
「一回だけでいいから、代わりに行ってくれないか」
断ろうとしたが、その向こうで、別の声が混じった。男の声だった。
救急車はまだですか。
反射みたいに受話器を置いて、気づけば家を出ていた。
交差点には、本当に男が立っていた。雨も降っていないのに、全身だけ濡れたみたいに暗かった。片腕で小さなものを抱いていたが、顔は見えなかった。白い布か、服か、それとも髪なのかも分からなかった。
男は僕を見ると、安心したように近づいた。
「この子が、まだ」
僕は黒田に聞いた言葉を、そのまま口にした。
「もうすぐ救急車が来ますよ。娘さんは大丈夫です」
男はしばらく黙って、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は泣いていた。
ここまでは、黒田の言った通りだった。
違ったのは、そのあとだった。
男は頭を上げずに、もう一度言った。
「それで、今日はどちらが抱いてくれるんですか」
意味が分からず固まった。次の瞬間、耳のすぐ後ろで、小さな子どもの声がした。
「おとうさん、きょうはこのひとなんだね」
悲鳴も出なかった。振り向けなかった。目の前の男は、まだ何かを抱いているように見えたのに、背中側から、ひどく軽い重みが両腕にのしかかった。濡れた髪が手首に貼りつく感触だけが、はっきり分かった。
その晩以降、黒田は交差点に来なくなった。
学校には普通に来ていたし、相変わらず人の輪の真ん中で笑っていた。けれど、僕とは一度もその話をしなかった。あの夜のことも、電話のことも、何も言わなかった。
ただ、夜十一時を過ぎると、僕の家の電話が鳴るようになった。
出ると、男が助けを求める。
そのあと、受話器のずっと奥で、黒田のギターが鳴る。
「Sing」の出だしだけを、何度も、何度も。
そして、僕が決まった文句を言い終えるまで、背中の重みは消えない。
[出典:228 :本当にあった怖い名無し:2006/04/03(月) 15:32:12 ID:aOHQPdOQ0]