「この前、聞かされた話があるんですよ」
そう言って語り始めたのは、同僚のAだった。
夜の残業明けで、事務所の空気は乾ききっていたのに、彼の声だけがどこか湿っていた。
あの日は、深夜の壱時過ぎだったらしい。
家族はすでに寝静まり、廊下の照明も最低限の常夜灯だけ。
一階の奥にあるトイレの前に立つと、壁にこびりついた冷気が腕の産毛を持ち上げたという。
その瞬間、Aはふと耳を澄ませた。
どこか遠くで、水が細かくばらつく気配がした。
普段なら気にも留めない。
だが、その夜に限って、音は妙に近いように感じられたらしい。
外は雨だった。
ただ、家にいる時に雨脚を判断する癖がAにはあった。
玄関を開けるほどではなく、ちょっと窓から手を出すくらいで十分という、変な確信めいた癖だ。
トイレの小窓には、型板ガラスがはめ込まれている。
外の影は、いつも水中で揺れるみたいに曖昧で、輪郭がちぎれそうになる。
Aは、そこへ手を伸ばした。
冷えた空気の筋が、指の付け根にまとわりつく。
格子サッシを少しだけ開け、外の湿りを確かめようとしただけ……そのつもりだった。
指先が外に出た刹那、雨の粒が一つ、関節のうえで跳ねた。
そこまでは普通のことだ。
問題は、その直後だった。
「上から掴まれたんですよ、俺の指。ギュッて」
Aは、そう言いながら、乾いた喉を鳴らした。
その音が机の上の書類を震わせるほど、小さく、しかしはっきりしていた。
掴まれた感触は一瞬だったという。
ただの触れた、ではなく、確かに握った――骨の並びを確認するような、急所を探すような圧だったらしい。
反射的に手を引いたとき、関節が軽く鳴ったそうだ。
Aは最初、冗談みたいに「猫か何かかな」と口にした。
しかし、型板ガラスの向こうに揺れた“影”が、問題だった。
それは、下ではなく――上から伸びていた。
一階のトイレの小窓に、外側から上に体を預けて覗き込める高さなんてない。
脚立もない。
植木もない。
そもそも外壁側は、雨どいを挟んで空白のスペースがあるだけだ。
「じゃあ何で、上から……?」
と、誰かが呟いた。
Aは、答えない。
代わりに、握られた指を揉みながら、少し俯いた。
「影、あったんです。肩から何か垂れてるみたいな……髪かな、分からないけど。
でも、上から覗くなら、顔が窓に近づくはずでしょう。
なのに、見えたのは腕と……ぶら下がってるみたいな、暗い塊だけで」
そこでAは言葉を切った。
何かを思い出すように目を細めたまま、しばらく黙った。
「……あれ、人ができる形じゃないですよ。
もし人間なら、肩が窓の位置に来るためには、逆さに吊られてでもなきゃ無理でしょ。
でも、逆さの影じゃなかったんです。
俺の指を握った手は、ちゃんと“上から”だったんですよ」
常夜灯の淡い橙色が、Aの顔の輪郭を削っていった。
照度の低い部屋で語られるその情景は、まるで彼自身があの小窓の向こうに立っているかのように感じられた。
「で、その後は?」
と誰かが促すと、Aはうつむいたまま、指先を擦った。
「離したんですよ、向こうが。でも、離し方が……引っ込むんじゃなくて、まるで上に戻るみたいにスッと……」
語尾が震えていた。
同僚の一人が咳払いをした。
空気が重く沈んでいく。
Aは続けた。
「だから俺、今でも分からないんです。
あれ、どこから腕が生えてたのか」
Aの話は、そこで一度途切れた。
だが、彼の視線は机の端に貼りついたままで、まだ続きがあることは誰もが察した。
雨の日の湿気とは違う、別種の重さが空気を満たしていた。
指を握られた翌朝、Aは小窓の外側を確認したらしい。
夜の冷気が残っているはずの時間帯だったのに、窓枠の金属は、不自然なほど乾いていたという。
雨は確かに降っていたのに。
外壁にも、水の流れた痕跡が途切れている部分があった。
「窓のすぐ上だけ、筋が一本消えてたんですよ」
Aはその線を空中でなぞるように指を動かした。
「誰かが、そこに何か“立てた”みたいに」
だがその「誰か」が立てる場所など存在しない。
窓の上は、外壁の段差がないまま、真っ直ぐ壱間分ほど空いているだけだ。
そこに足を掛ける場所はない。
ぶら下がるための突起もない。
なのに、筋が消えている部分だけ、妙に四角く欠けていた。
まるで、何か重いものが長い時間――否、雨の粒を遮るほど密に――そこにあったように。
「で、その翌日なんです」
Aは続けた。
「台所の勝手口のほうで、変な音がしたんですよ。金属を擦るみたいな……でも引っかく音じゃなくて、もっと、触って確かめてる感じの」
家には猫はいない。
風向きを調べてみても、戸が鳴る角度ではない。
Aは恐る恐る勝手口に回った。
すると、ドアの下の隙間――ほんの数ミリの空間に、細い影がかかったらしい。
「影っていうか……うすい指みたいなのが、ちょっと差し込まれてたんですよ。
でも、すぐ引っ込んだ」
その瞬間、Aは昨夜の小窓で握られた指を握りしめた。
そこだけやたら汗ばんでいたという。
「俺、あの手の届く範囲に何かがいるんじゃないかって……そう思ったんです」
さらにその夜、Aは寝室で奇妙なことに気付いたという。
雨が止んでいるのに、外の闇がやけに濃い。
窓に近づくと、型板ガラスがない普通の透明ガラス越しに、庭の黒さが沈み込むように見えた。
だが――ガラスの中央部に、点が一つあった。
白い、小さな円。
雨粒の跡かと思い、拭こうと手を伸ばしたAは、そこで固まった。
その白い点が、わずかに震えたのだ。
震え方が、あまりにも生き物めいていた。
「違う、雨じゃない……」
そう呟いた瞬間、Aは悟ったらしい。
その白点は、外側からガラスに押しつけられた“何かの先端”で、しかも――
「指の……爪ですよ。内側に向けて、こっちを軽く押してきてた」
Aは、眠るどころではなかった。
家の構造を思い返し、可能性を一つずつ潰そうとした。
だがどれも破綻していく。
届くはずのない窓。
届くはずのない高さ。
届くはずのない深夜。
「しかも……」
Aの声がさらに低くなった。
「その爪、窓の中央にあったんです。
うちの庭側って、外灯もないし、踏み台になるような物もないんですよ。
あんな位置を押せるの、どう考えても――」
Aはその先を言わなかった。
言葉の代わりに、喉の奥の空気だけが揺れた。
翌日の朝、Aは出勤前にもう一度トイレを確認した。
昨夜、指を握られたあの小窓だ。
雨は完全に上がり、光がガラスの凹凸を優しく照らしていた。
しかし、光の入り方に違和感があった。
型板ガラスの模様のうち、ひと区画だけ――
指の形にへこんだように歪んでいた。
「内側からじゃなくて、外から押された形なんですよ。
指でぐっと押せば、凹むわけないんですけど、そこだけ光の屈折が変で……」
ガラスの裏面を指でなぞると、ほんの少し、冷たさの濃淡が違ったという。
ほかの部分より、そこだけ長い時間“何か”が触れていたみたいに。
Aは、その窓から目を離せずにいた。
自分の指を握ったあの手が、もう一度現れるのではないかと。
その姿は見えないけれど、気配だけが張り付いているような感じがした。
そして、そこでふと気付いたという。
「……あれ、昨日の影。
上からじゃなくて、俺のほうが下から見上げてただけなんじゃないか……って」
意味が分からず、皆が顔を見合わせた。
Aは続ける。
「俺、握られた瞬間、ビックリして身を少し引いたんですよ。
だから影が“上から”見えただけで、本当は……」
喉の奥で言葉が詰まる。
Aは、指を一本立てて示した。
「……本当は、窓の向こうの“ほうが高かった”んじゃなくて……
俺が、向こうより低かったんじゃないかって……」
私たちの背筋を冷やすのに十分な沈黙が落ちた。
Aはさらに静かな声で続ける。
「もし、あの手が地面から伸びてたんじゃなくて……
窓の高さより“上”にあったなら……
影が逆さでもなく、無理な体勢でもなく、ただ“見下ろして握ってきた”だけじゃないですか」
誰も冗談だとは思えなかった。
Aの顔色は、語り終えた今もなお、あの夜の光の薄さをまとっていた。
そしてAは最後に、ぽつりと付け加えた。
「窓の外、雨どいの横に四角い跡があったんですよ。
誰かが長い時間、そこに“頭”を乗せてたみたいな形の……
俺、あれ見てから、夜の雨が嫌なんです」
その言葉の重さが、事務所の空気に沈澱していった。
まるで、Aが見た影が今もどこかで雨を待って、窓の上に顔を寄せているかのように。
これが、Aから私が聞いた話である。
[出典:319 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.11] (ワッチョイW 11b8-znWC):2025/03/17(月) 23:51:08.69ID:WEHZPoc10]