あれは小学校一年の夏休みのことだった。
思い出すたびに胸の奥がざわつき、体の芯から冷えていくような感覚に襲われる。
今ではもう誰に話しても「子供の妄想だったんじゃないか」と笑われるだけだが、あの体験が作り話だとは、どうしても思えない。
実家は山に囲まれた過疎地にあった。近所に同い年の子供は数えるほどしかおらず、夏休みの多くの時間は一人で過ごしていた。
その日も例外ではなかった。朝から誰とも遊ぶ約束がなく、家でじっとしているのも退屈で仕方がなかった私は、親の忠告を無視して外へ出た。
「一人で山に入るな」
「大人の目の届かない場所には行くな」
耳にたこができるほど繰り返されてきた言葉だったが、当時の私は「どうせ平気だろう」と高をくくっていた。
林道に差しかかったとき、不意に声をかけられた。
見知らぬ「お姉ちゃん」がそこに立っていたのだ。
七歳の目から見ればずいぶん大人びて見えた。小学校高学年か、中学生くらいだったろうか。
明るい色のワンピースに、陽射しを反射する長い髪。人懐っこい笑顔を浮かべ、まるで最初から私を待っていたかのように近づいてきた。
「一緒に遊ぼう」
そう言われた瞬間、孤独な時間が一気に吹き飛んだ。私は疑うこともなく、その誘いに飛びついた。
お姉ちゃんは「年上の私がいるから大丈夫」と言って、山の奥へ私を導いた。
今思えば、それはただの口実に過ぎなかったのかもしれない。だが幼い私は冒険心にかられ、夢のような気分で後をついていった。
山の中で、私たちは鬼ごっこを始めた。
鬼はお姉ちゃん。最初はただの遊びだった。木立の間を駆け抜け、笑い声を響かせる。
汗ばんだ額に蝉の声が重なり、私は夢中で走り回った。
だが偶然見つけた廃屋に身を潜めた瞬間、すべてが変わった。
廃屋は色あせた木造で、窓ガラスのいくつかはすでに割れていた。私は鬼役のお姉ちゃんから逃げるため、その中に忍び込んだ。押し入れに潜り込めば、簡単には見つからないと思ったのだ。
ところが、お姉ちゃんの様子が急におかしくなった。
「どこにいるの?」
最初は優しい声だった。けれど次第に甲高く、どこかヒステリックな響きを帯びていった。
「出てきて……ここでおままごとしよう」
「お泊まりしようよ……」
そんな誘いを繰り返しながら、彼女は廃屋の中を歩き回った。
私は押し入れの隙間から外の光をうかがっていた。昼の白い光が差し込んでいたが、やがてそれは夕焼け色に変わっていった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
廃屋の中ではガラスが割られる音や、ふすまを蹴飛ばす鈍い衝撃音が響き渡った。
お姉ちゃんは狂ったように叫び出した。
「出てこい!」
「出せ!」
「助けて!」
まるで別人のような声に変わっていた。
私は押し入れの中で震え、息を殺した。
なぜか彼女は、そこに隠れている私を見つけられなかった。
――その後の記憶が途切れている。
気づけば明け方、私は見知らぬ男の人と竹林を歩いていた。
背は高く、顔はよく覚えていない。ただ淡々と説教をしていたことだけは鮮明に覚えている。
「大人が禁止するのには理由がある」
「子供が一人で出歩いてはいけない」
その声は不思議と安心感を与え、恐怖に震えていた心を静めていった。
やがて舗装された道路に出ると、その男は「ここからは自分で帰れ」と言って背を向けた。
私は歩き出し、やがて母方の祖母の家の前に立っていた。玄関を叩くと、祖母は私の姿を見るなり泣き崩れ、強く抱きしめた。
風呂に入れられ、両親や父方の祖父母が呼ばれた。
私は失踪していた二日間のことを話したが、両親は半信半疑だった。
けれど祖父母たちは「お姉ちゃんと遊んだ」という部分を聞いた途端、顔色を変えた。
まるで心当たりがあるかのようだったが、詳しいことは何も教えてくれなかった。
後日、私が姿を消していた間に近所の山で大規模な山火事があったと知らされた。
焼け跡の中には廃屋が一軒残っていたという。消火後すぐに消防団が調べたが、中には誰もいなかったそうだ。
あの廃屋が、私の隠れていた場所だったのだろうか。
祖父母の強い勧めで、私たちは父方の家から母方の実家の近くへと引っ越した。
あの明け方、男の人と歩いていた竹林には小さな古い社があり、火の神様が祀られていると聞かされた。
年月が経ち、私は大学生になった。
友人たちに誘われ、「心霊スポット」と噂される焼け落ちた廃墟に足を踏み入れたことがある。
火災に遭ったはずなのに、なぜか煤けていない押し入れがあった。引き戸には◎のような印が黒々と描かれていた。
どう見ても、あの時私が隠れていた押し入れだった。
力自慢の友人がそれを開けようとしたが、まるで偽物の壁のようにピクリとも動かなかった。
私たちは気味悪さに耐えきれず、早々に引き上げた。
あの「お姉ちゃん」が何者だったのか、今も分からない。
地元の子供たちに聞いても、そんな人物を知る者はいなかった。狭い田舎では、どこの家にどんな子がいるかすぐに分かる。
けれど、誰も彼女の存在を知らなかった。
あれから何年も経ったが、夏の夕暮れになると、あの押し入れの暗闇で聞いた声が蘇る。
「出てこい」
「お泊まりしようよ」
どちらが本当の声だったのか、今ではもう確かめようがない。
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タイトル案
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押し入れの印
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山に呼ぶ声
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火の神の竹林
[出典:441 :本当にあった怖い名無し:2008/03/15(土) 19:18:01 ID:mTPuEhD8O]