来年、結婚する。
その前に、ずっと胸の底に沈めていたものを吐き出しておこうと思う。厄落としだと思えば、少しは気が楽になるだろうか。
あれは、小学生の夏休みのことだった。
母が少し厄介な病気になり、遠くの病院に長く入院した。父も仕事の合間に母の病院へ通うようになり、家は空っぽの時間が増えた。近所や親戚が交代で様子を見に来てくれたが、それでも父の負担は大きかったのだろう。ある日、父から「しばらく大伯母さんの家に行ってくれ」と言われた。
大伯母は父の本家筋にあたる人で、山あいの集落に一人で暮らしていた。町と町の境目のような谷間にあって、電気こそ通っていたが、隣の家まで歩いて十分以上かかる。川の水はそのまま飲めるほど澄んでいて、小魚が群れて泳いでいた。畑の向こうには山の稜線が重なり、夕方になるとすべてが黒い影に沈んでいく。
古い日本家屋に独りで暮らす大伯母は、本家の長女で墓守でもあった。早くに両親を看取り、畑を耕し、時々土地を貸し、穏やかに暮らしていたらしい。山に道路を通す時に土地を売って、それで老後は困らないだけの金を得たと、父から聞いていた。
母がいない寂しさにも慣れてきた頃だった。『となりのトトロ』が大好きだった私は、山里の風景に心を躍らせていた。出発前に父が漫画を山ほど買ってくれたこともあり、少なくとも最初のうちは、退屈とは無縁だと思っていた。
昼過ぎに着き、玄関のチャイムを鳴らすと、家の中で人の動く気配はするのに、大伯母はなかなか出てこなかった。やがて金属製の引き戸の古い鍵を外すガチャガチャという音がして、ゆっくり戸が開いた。
八畳間をまるごと客間として使わせてくれるという。畳の匂いと、盆菓子の盛られた座卓が、妙に「よそ行き」の空気を漂わせていた。
父が帰って少し経った頃、裏手から「ココココ」という木を叩くような音が響いた。大伯母は「ああ、センジュさんが来たな」と言った。
近所の人か何かかと思った私は、大伯母に手を引かれ、裏手へ回った。そこには石段の下に、木の壁のようなものがあった。引手はついているが、扉として開くことはできないらしい。その板の向こうから、一定の間隔でココココと叩く音がする。
大伯母は板を同じ調子で叩き返した。するとすぐに向こうからも返事があった。
「返事があるうちは、絶対に外に出ちゃいけない」
何度も、何度も念を押された。理由は言わない。私はただ「はい」とだけ答えた。
それからの日々は単調だった。虫を捕り、釣りをし、漫画は一日二時間まで。畑仕事を手伝い、夕方は川辺を歩いた。静かで、退屈で、でも妙に規則正しい生活だった。
三週間が過ぎた頃。
飽きてきた漫画を近所の人が貸してくれると言い、その家まで行く準備をしていた。いつもなら三十分もすれば板の向こうの返事は止むのに、その日はいつまでたってもココココがやまなかった。
苛立った私は、裏口ではなく正面の玄関から出ようとした。大伯母の方言まじりの制止を振り切り、戸を開けた瞬間――十センチほど開いた隙間から、何かの手が飛び出してきた。
五本の指。びっしりと茶色い毛に覆われた手と腕。先の尖った爪。人間ではないと直感した瞬間、背中に冷たい汗が走った。恐ろしい力で引きずり出されそうになったところを、大伯母が飛んできて戸を閉めた。挟まれた腕が、猫の悲鳴を何倍にも増幅したような声を上げて引っ込む。
外からガタガタと戸を開けようとする音が響いた。大伯母は必死に押さえつけ、私はただ呆然と立ち尽くした。やがて戸を諦めたのか、足音もなく裏へ回り、またココココと叩き始めた。砂利道なのに、足音は一切しなかった。
「おめえじゃなかったら、もっとおどげでねえのが来てた」
大伯母のその言葉が、今も耳に残っている。
翌日、父が迎えに来た。裏手を叩いて返事がないことを確かめ、私を車に押し込むようにして出発した。その後、大伯母の家に行くことはなかった。
何年も経ち、大伯母の葬儀で親戚が集まったとき、私はそれとなく「センジュさん」について尋ねた。わかったのは、センジュは「先住」と書くこと。うちの家系は元々あの山の人間ではなく、昔はよそ者として浮いた存在だったこと。そして、親戚の第一子の名前には、ある共通点があること。もちろん、大伯母も。
「俺じゃなかったらもっと怖いのが来てた」という言葉も、女である大伯母が家と山を継いだ理由も、その共通項に関係があるのではないかと、私は疑っている。
先の地震であの家は取り壊され、土地も売られた。あの山にうちの人間はもういない。だが、もし子が生まれたら、名はどうすべきか――それが今の私の悩みだ。
未だに、ドアのノックやチャイムの音が苦手だ。
あの板を叩く「ココココ」に、あまりにも似ているから。
(了)
[出典:850 :本当にあった怖い名無し:2014/11/16(日) 19:15:39.92 ID:G3sVaYnY0.net]