あれは、僕が高校二年の十月に体験したことだ。
今でも、夜中に廊下で硬い足音を聞くと目が覚める。
郵便受けが鳴った気がすると、時計を見る癖もついた。
午前二時四十九分でないことを確かめてからでないと、もう一度眠れない。
僕はもともと、幽霊なんて見えなかった。
それが「髪被喪(かんひも)」の一件以来、たまに人には見えないものが見えるようになった。
だからといって、何かできるわけではない。祓えるわけでも、霊と話せるわけでもない。
ただ、見える。
それだけだった。
十月二十五日の夕方、サッカー部の純一から連絡が来た。
近所の喫茶店に来てほしいという。
店に着くと、純一の向かいに洋子さんが座っていた。
サッカー部のマネージャーで、何度か顔を合わせたことがある。よく笑う人だった。
その日は、別人のようだった。
頬が落ち、両手を膝の上で握りしめていた。爪の先が白くなるほど力が入っている。
「島田」
純一が声を落とした。
「これ、ちょっと見てくれ」
洋子さんがバッグから一枚のはがきを出した。
官製はがきだった。
ただし、縁だけが黒い。
定規で引いたように、四辺が黒く塗られていた。
表には、
「藤田洋子 様」
と印字されている。
裏には一行だけ。
十月二十六日 午前二時〇二分 死亡
「これ、今日の夜ってこと?」
僕が聞くと、洋子さんは頷いた。
それから、これまでのことを話し始めた。
最初に届いたのは、一か月ほど前だったという。
九月二十三日の深夜。
午前二時四十五分ごろ、洋子さんは突然目を覚ました。
トイレに行こうとしたとき、アパートの廊下から足音が聞こえた。
カッ。
コッ。
カッ。
ヒールか、革靴のような音だった。
誰か帰ってきたのだろうと思った。
ところが足音は、洋子さんの部屋の前で止まった。
少しして、玄関の郵便受けが鳴った。
カコン。
「郵便です」
男の声だった。
小さく、妙に平らな声だったという。
時計は二時四十九分。
朝まで布団から出られなかった。
明るくなってから玄関を見ると、黒い縁取りのはがきが一枚落ちていた。
宛名は知らない男だった。
横山秀夫 三十八歳。
裏には、
九月二十七日 十九時三十一分 死亡
とあった。
気味が悪くて捨てた。
四日後、ファミレスのテレビで、その名前を聞いた。
同姓同名かもしれない。
洋子さんもそう思った。
けれど、そのあともはがきは届いた。
二枚目。
三枚目。
四枚目。
五枚目。
毎回、午前二時四十九分。
毎回、同じ足音。
毎回、
「郵便です」
という声。
そして、はがきに書かれていた名前の人は、記された日時の前後に亡くなった。
事故だったり、病気だったり、原因はばらばらだった。
「名前の人たち、知り合い?」
僕が聞いた。
洋子さんは首を振った。
「一人も知らない」
純一が横から言った。
「しかも、そのはがき、朝になるとなくなるんだ」
「なくなる?」
「捨てたとかじゃなくて、消えるんだよ。机に置いてても」
僕は洋子さん宛のはがきをもう一度見た。
「これは?」
「これは消えない」
洋子さんが言った。
「破っても、捨てても、戻ってくるの」
その言葉を聞いたとき、背中が粟立った。
僕は店の外に出て祖父に電話した。
祖父も、昔から妙なものが見える人だった。
事情を話すと、しばらく黙ったあとで言った。
「前に渡した札、まだあるか」
「ある」
「玄関と窓と、郵便受けに貼れ」
「それで大丈夫?」
返事が少し遅れた。
「開けるなよ」
「何を?」
祖父は答えなかった。
その夜、僕と純一は洋子さんの部屋に泊まった。
窓。
玄関。
ドアノブ。
郵便受け。
言われた場所すべてに札を貼った。
午前一時を過ぎると、誰もほとんど喋らなくなった。
一時五十五分。
一時五十八分。
二時。
洋子さん宛のはがきには、午前二時〇二分とある。
僕は時計を見続けていた。
二時一分。
そのときだった。
廊下から音がした。
カッ。
コッ。
カッ。
洋子さんが息を呑んだ。
足音はゆっくり近づいてきた。
カッ。
コッ。
そして、止まった。
玄関の前だった。
誰も動かなかった。
時計の秒針だけが進んでいた。
二時一分四十秒。
四十一秒。
四十二秒。
カコン。
郵便受けが鳴った。
僕は反射的にそちらを見た。
貼っていた札がなくなっていた。
「藤田さん」
ドアの向こうから声がした。
これまで聞いたという声より、ずっと近かった。
「郵便です」
純一が洋子さんの手を掴んだ。
ドアノブが一度だけ下がった。
ガチャ。
鍵はかかっている。
もう一度。
ガチャ。
それきり動かなかった。
時計が二時二分になった。
何も起きない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
僕らは顔を見合わせた。
そのとき、郵便受けの蓋が、ほんの少し持ち上がった。
外からではなかった。
部屋の中からだった。
ゆっくり開いていく。
その隙間から、暗い廊下が見えた。
誰もいない。
ただ、床に一枚のはがきが落ちていた。
黒い縁取り。
表を向いていた。
そこに書かれていたのは、洋子さんの名前ではなかった。
僕の名前だった。
島田――
そこまで読んだところで、部屋の電気が消えた。
次に気づいたとき、朝だった。
三人とも床に倒れていた。
時計は七時過ぎ。
洋子さんは生きていた。
僕も純一も怪我はなかった。
玄関の札は全部なくなっていた。
僕の名前が書かれたはがきも消えていた。
洋子さんはその日のうちに実家へ戻り、ほどなく町を離れた。
それから彼女のところには、何も届いていないらしい。
後になって、純一から一つだけ聞いた。
当時、学校で妙なまじないが流行っていたという。
午前二時四十九分。
決まった場所にあるポストへ、黒い縁を描いたはがきを入れる。
そこに嫌いな相手の名前を書く。
ただ、それだけ。
洋子さんも一度だけやったらしい。
誰の名前を書いたのかは、純一も教えてくれなかった。
僕は、それ以上聞かなかった。
ただ、一つだけ、どうしても気になることがある。
あの夜。
郵便受けの内側から蓋が開いたとき、床に落ちていたはがき。
あれには、僕の名前しか見えなかった。
裏を見る前に、電気が消えた。
だから、日時を知らない。
今も知らない。
そして、ときどき夜中に目が覚める。
時計を見る。
二時四十八分。
次の一分間だけは、息を潜める。
廊下から、
カッ。
コッ。
と聞こえないか確かめながら。
[出典:369 :2005/10/20(木) 14:06:11 ID:tKVQKarJ0]