あの夜のことを思い出すと、今でも胸の奥に冷たいものが落ちてくる。
数年前、顔見知りに連れられて場末のスナックに入った。カウンターの奥には、派手なドレスを着た女がグラスを磨いていて、連れは「ここのホステス、霊感が強いんだ」と耳打ちした。お決まりの幽霊話でも始まるのかと、最初は気楽に構えていた。
店内は妙に静かで、他の客はいなかった。いつの間にか、その女の表情が変わっていた。肩がわずかに揺れ、呼吸が荒くなり、次の瞬間には声の質がまるで別人だった。低く、乾いた響き……言葉の端々に、古い芝居のような武張った調子が混ざっていた。
「ここは……何処じゃ」
聞き覚えのない訛り。視線は落ち着きなく店の隅々を舐め回し、ガラスの棚に並ぶ酒瓶を睨みつけては「これは何じゃ」と問い、答えを告げると「……ういすきー?それは何じゃ」と繰り返す。グラスに注いで渡せば、ひと口で顔をしかめ、苦いものを噛み潰したように吐き出す。天井のシャンデリアを見上げては、息を呑む。「光る……吊るしてある……何じゃこれは」――まるで電気を知らぬ子供のようだった。
その足取りは重く、店の中をゆっくりと踏みしめて歩くたび、床板が不自然に軋む気がした。「ここは……どこだ」その声には、初めて自分が異界に足を踏み入れたと悟った者の怯えが混ざっていた。
店を出ようとしたその背を、他のホステスたちが慌てて押しとどめた。外の街はネオンに彩られたビルばかりで、見慣れぬ光景にそいつは呆けた顔をさらしたまま動かなくなった。誰も冗談だとは思えなかった。
その頃、彼女――本来のホステスの意識は、白い霧の中にいたという。足元の感触がない。恐怖に駆られ走り出すと、前方に霧の薄れた場所があり、そこを抜けると土の匂いが満ちた。遠くに川、木造の馬小屋、地面には雑草。空気は湿り、蝉の声が響く。振り返ると、馬に乗った侍の姿。助けを求めて飛び出しても、その目には映らぬらしく、馬は彼女をすり抜けた。声は届かない。自分がただの意識の塊になってしまったことを、その瞬間悟ったという。
現代の店に戻った『男』は、ようやく口を開いた。「わしは馬子じゃ……」馬の世話をしていたところ、ふいに意識が途切れ、気がつけばこの場所にいたと。あまりに具体的な言葉の重さに、同僚たちの顔色は変わった。馬子の話はまっすぐで、どこにも作り物めいた軽さがなかった。
どうすることもできず、日本酒を飲ませ眠らせた。救急車を呼ぶ案も出たが、結局様子を見ることにした。約一時間後、『彼女』が目を覚ました。自分の身体に戻ったことを確信した瞬間、堰を切ったように泣き出した。
後から聞いた彼女の話は断片だらけだったが、私は一つの仮説を立てた。過去の馬子と彼女の意識が入れ替わった。ただし、彼女の意識は馬子の身体には完全には入らず、霧の中に迷い込んだのだ。あの霧は境界だったのかもしれない。完全に入ってしまっていたら、もう戻れなかったかもしれない。
馬子がどの時代の人間かは分からないが、電気を知らないことから百五十年ほど昔だろう。幕末から明治初期……そんなあたりか。
その男が無事、元の時代の身体に戻れたのかは、永遠に分からない。彼女は「もう二度とあんなことは嫌」と震えた。幽霊を見るよりも恐ろしい経験だったと。
私は今でも時折考える。あれはただの霊障ではない。時間そのものが、意識を媒介にして裂け目をつくったのだ。人と人の間にある百年以上の隔たりを、ふとした拍子に飛び越えてしまう瞬間が、世界には潜んでいるのかもしれない。
[出典:585 :あなたのうしろに名無しさんが……:04/05/31 16:14 ID:ICA9Zse2]