あの家では、結局何も見なかった。
梅雨に入ったばかりの午後、俺は仕事で郊外の貸家を訪ねた。築十五年ほどで、塀も門もまだ新しい。外から見る限り、曰くのある家には見えなかった。
住人をAさんとしておく。玄関先で挨拶をすると、彼は俺の顔を見て、少し意外そうな顔をした。
「……普通に入って来られたんですね」
聞けば、この家には以前の住人が庭の柿の木で首を吊ったという話があり、近所でも噂ではなく、実際にあったこととして語られているらしい。それ以来、この家に「合わない人」は門の前で気分を悪くし、中には泣きながら帰ってしまう人もいるという。
俺には霊感がない。これまで幽霊らしいものを見たこともなければ、場所に入っただけで具合が悪くなった経験もない。その日も同じだった。門を通り、玄関で靴を脱ぎ、家の中へ入っても、感じるのは湿気と少し埃っぽい匂いくらいだった。
Aさんによれば、階段の踊り場には逆さになった女が出るという。俺はそこまで行って、試しに軽く跳ねてみた。和室では血まみれの男が這ってくることがあるというので、畳に寝転んで天井まで眺めた。それでも何も起きなかった。
「相当ですね……」
Aさんは呆れたように笑った。
一通り仕事を終え、玄関を出るとき、Aさんが「お守り、いらなかったですね」と言った。同僚からは出掛ける前に何度も持っていけと言われていたが、結局使うことはなかった。
異変があったのは、その家を出てからだった。
車に乗り、エンジンをかけたところで携帯が鳴った。母からだった。仕事中に電話をしてくることはほとんどない。
「……あんた、今どこにいるの」
声がいつもと違った。何があったのか尋ねても、「大したことじゃない」としか言わない。ただ、帰りに実家へ寄れと言って電話を切った。
夕方、実家へ行くと、母は居間にいた。顔色が悪く、湯のみを持つ手がわずかに震えていた。
その日の昼、母は居間でうたた寝をしていたという。半開きになっていた襖の向こうを誰かが横切った気がして、来客かと思い廊下へ出た。人影は隣の和室へ入っていった。
中を覗くと、黒い袈裟を着た坊主が畳に正座していた。

母が声をかけるより先に、坊主は読経を始めた。低く重い声だったという。母はとっさにその場へ座り、手を合わせた。坊さんが来てお経を上げてくれているのだと思ったらしい。
だが、聞いているうちにおかしいと思い始めた。見覚えのない坊主だった。聞いたことのない節回しで、黒い袈裟を着ている。母には、それがだんだん葬式の読経のように聞こえてきたという。
そのとき、廊下側の障子の向こうに誰かが立った。
母が障子を開けると、父がいた。
父はもう亡くなっている。
驚いている母に、父は言った。
「……そんなもんに、茶なんか出すな」
それだけだった。父は廊下の奥へ行き、見えなくなった。
母が和室へ戻ると、坊主はまだ同じ姿勢でお経を上げていた。母はそこから逃げてはいけないと思ったという。理由を聞いても、「そう思った」としか言わなかった。
しばらくして、読経が止まった。
坊主が顔を上げた。
「……何故だ」
母は、その言葉を聞いた瞬間、自分でも驚くほど大きな声で答えた。
「何故なら、私のものだからだ」
そこで目が覚めた。
母は居間に寝ていた。夢だったのだと思おうとしたが、胸騒ぎがおさまらず、俺に電話をかけたという。
俺は、自分がそのころ何をしていたのか話した。柿の木で人が死んだといわれる家に入り、そこに出るというものを何一つ見ずに帰ってきたことも。
母はしばらく黙っていた。
「……やっぱり、関係あるんだ」
俺は、父が助けに来てくれたのではないかと言った。
母は首を横に振った。
「分からない」
少ししてから、もう一度言った。
「あの人、私を守ろうとして言ったんじゃない気がする」
それ以上、母も何も説明できなかった。
黒い袈裟の坊主が誰だったのかは分からない。父がなぜ「茶を出すな」と言ったのかも分からない。何より母自身、「私のものだからだ」と、何を指して言ったのか覚えていないという。
俺には、その日も何も見えなかった。
それからも同じだ。曰くのある場所へ行っても、亡くなった人が出てくることもなければ、誰もいないところから声をかけられたこともない。
以前なら、それを霊感がないからだと思っていた。
ただ、あの日から一つだけ、考え方が変わった。
Aさんは最初、俺を見てこう言った。
「普通に入って来られたんですね」
あの家に入れない人がいるという話だった。
俺は入れた。
そして、何も見ないまま出てきた。
その同じころ、母は実家の和室で、見知らぬ坊主を相手にしていた。
今も俺には何も見えない。
だからもう、見えないことを安心の材料にはしていない。
[出典:125 :本当にあった怖い名無し:2011/05/29(日) 18:26:24.83 ID:QiOEhOE+O]