俺の田舎には、土地神がいると言われている。
神様と呼ばれてはいるが、誰も拝まない。祀らない。感謝もしない。ただ、触れないようにしてきただけだ。山に入るな、日が落ちたら近づくな、獣の声に応えるな。それだけが暗黙の了解だった。
幼い頃、祖父はよく言っていた。
山は山であって、人のものじゃない。
あれは守る存在じゃない、境界だ、と。
その意味を理解しないまま、俺は都会に出て家庭を持ち、その言葉も迷信として頭の奥に沈めていた。
事件が起きたのは、娘が小学校に上がったばかりの頃だ。久しぶりに家族で実家に帰省した。何年も離れていたせいか、田舎の空気はやけに澄んでいて、静かで、どこか落ち着かなかった。安心というより、空白に近い感覚だった。
二日目の夕方、娘がいなくなった。
飼い犬と散歩に出たまま、帰ってこなかった。夕方五時までには戻れと約束していたが、日が傾き始めても姿が見えない。携帯も圏外だ。最初は誰も本気にしなかった。迷うような道でもないし、犬もいる。そう思いたかった。
だが、探し始めて十分もしないうちに、胸の奥に嫌な重さが溜まり始めた。父は無言でトラックの鍵を取り、母は近所に電話をかけ始めた。理由は誰も口にしなかったが、全員が同じ場所を避けるようにしていた。森の入り口だ。
三十分後、娘は見つかった。
森の入り口にある古い小屋で、丸くなって眠っていたという。泣いてもいなかった。怪我もなかった。ただ、犬がいなかった。
抱き上げると、娘は妙に温かかった。夕方の冷え込みの中にいたとは思えないほど、体が火照っていた。安心しかけたその時、娘がぽつりと言った。
「お猿さんがね、ワンコ連れてった」
空気が一瞬で固まった。
誰も怒らなかった。誰も否定しなかった。ただ、父だけが顔色を変え、娘に詰め寄った。どんな猿だったか、何をしたか、触ったか。質問の内容より、その必死さが異様だった。娘は怯えて妻にしがみついた。
父はそれ以上聞かなかった。代わりに、家に戻るなり、塩と酒を玄関と縁側に撒き始めた。猟銃を取り出す手が震えていた。
「寺前さんを呼べ」
その名前を聞いたとき、なぜか胸が冷えた。理由は分からない。ただ、呼ばれたくない名前だと直感した。
一時間もしないうちに、寺前さんは現れた。年配の女性で、スーツ姿だった。僧侶でも、巫女でもない。ただの人間に見えた。それが余計に不気味だった。
娘を見るなり、寺前さんは短く息を吐いた。
「触れてはいない。でも、見られている」
それだけだった。説明はなかった。問い返そうとしたが、喉が詰まって声が出なかった。
彼女は娘と妻の髪を少しずつ切り、小さな袋に入れた。理由は言わなかった。ただ、夜が来る前に準備が必要だと言った。
深夜、外から音がした。
獣の声だった。猿にも犬にも聞こえない、低く伸びる声。意味のない音のはずなのに、耳に残った。声は家の周りを回り、近づき、遠ざかり、また戻ってきた。
寺前さんは言った。
誰も応えるな。声を出すな。息を潜めろ。
玄関の前で、音が止まった。
次に聞こえたのは、人の声だった。
楽しそうで、幼くて、どこか懐かしい声だった。
「開けて」
その声に、娘が小さく動いた。寝ているはずなのに、瞼が震えていた。妻が必死に抱き寄せ、口を塞いだ。その行為が正しかったのかどうか、今でも分からない。
長い沈黙のあと、外の気配は消えた。何事もなかったかのように、夜が戻った。
寺前さんは、袋を持って帰った。何も言わなかった。ただ一度だけ、振り返って言った。
「ここには戻らないほうがいい」
それ以来、実家には帰っていない。
娘は普通に成長している。学校にも行き、友達もいる。ただ、時々、何気ない瞬間に言う。
「ワンコ、まだ遊んでるよ」
どこで、と聞くと答えない。ただ、山のほうを見る。
犬は見つかっていない。探した形跡も、死骸もない。最初から存在しなかったように、話題にされなくなった。
あの夜、守ったのは娘だったのか。
それとも、何かを差し出しただけだったのか。
山は今もそこにある。
変わらないように見えて、境界だけが、静かにこちらを向いている。
[出典:1 :名も無き被検体774号+:2012/09/24(月) 19:27:03.21 ID:vHQ+gBM/0]