寝返りのたび布団が擦れる微かな音の向こうで、何かがひとつだけ浮いているような白さが目の裏に残る。
あのとき、暗闇を裂いたのは、天井の隅の豆電球ではなく、手元のスマホだった。
深夜の部屋は湿気を含んでいた。冬の終わりの気配がまだ薄く、空気が肌に密着してくる。まぶたの裏のざらつきを意識しながら起き上がると、敷布団の端が冷えていて、そこに触れた足先がびくりと震えた。
視線を落とすと、枕元のスマホが弱く光っていた。通知の点滅や着信の明滅ではない。もっと、静かで、勝手に呼吸しているような光り方だった。
胸の奥がざわついたまま手を伸ばしたが、触れる直前にためらった。指先の温度が落ちるのが分かった。
開いていたのは、あの「Googleアシスタント」の画面だった。起動させた覚えはない。画面下部を長押ししない限り、こんな時間に勝手に立ち上がることはないはずだと、自分で自分に言い聞かせる。
だが、その「言い聞かせ」が、布団の中の湿気よりも頼りなかった。
ゆっくりと画面を見る。
そこには、自分の発言としてひとつだけ、文字が残されていた。
「人ももう死んだよ」
指先にじっとり汗が滲んだ。
息をするたび、部屋の空気が耳の奥で軋むように揺れる。
誰かのイタズラ……そんなのは、まずあり得ない。
夜中の静まり返った部屋で、誰が、どうやって、私のスマホをいじるというのか。
雑音を誤認した?
音声入力が勝手に起こった?
でも、そんな文章になり得るだろうか。「人も」なんて、妙な接続が雑音から生まれるはずがない。
画面の白と、部屋の暗さの境目がゆらゆら揺れる。
その揺れに耐えきれず、私はスマホを伏せた。
しかし伏せたところで、光の余韻は手の甲を薄く照らし続けるように感じられた。
動悸を抑えようと深呼吸すると、鼻腔に金属の匂いがわずかに刺さった。
何の匂いだろう。
布団は普通の洗剤で洗ったばかりだし、部屋にそんな物があるわけでもない。
ただ、同じ匂いを以前嗅いだ記憶がある。スマホの指紋センサーに触れたとき、熱でわずかに電子部品が香るような、あの微弱な焦げ。
画面を伏せた状態で、じっと耳を澄ませた。
……呼ばれている気がした。
だが、声ではない。
画面の向こう側にいる何かが、呼吸のテンポだけを送りつけてくるような感触。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
ただの誤作動だ。
ただの、よくある深夜の錯覚だ。
そう言いながら、私の指先はスマホに触れることを恐れていた。
再び表に返す。
白い吹き出しの文字列は変わらずそこにあった。
自分のアイコンの横に、あの文。
よりによって「死んだよ」なんて。
何を根拠に、誰が、誰へ向けて?
いや、それよりも気になるのは「人も」の「も」だ。
ほかに、何を並列したのか。
「人も」……「もう」……
読み返すごとに、文章の外側に本来続いていたはずの音が聞こえなくなっていく。
ふと、画面の隅で何かが動いた気がした。
通知バーではない。アイコンでもない。
揺れたのは、私の反射だろうか。
しかしガラス面に映った私の輪郭は、瞬間、口の形が違って見えた。
薄暗い部屋で、光を受けた自分の顔がほんの一瞬だけ、何かを呟くように動いたように感じた。
私は息をのんだ。
胸の奥がざらつき、胃の底がすうっと冷える。
そのとき、スマホが震えた。
新しいメッセージが追加された。
そこには、こう表示されていた。
「つぎは何がいい?」
私は声を出せず、スマホを両手で握ったまま固まった。
喉の奥が張り付いたようになり、うまく飲みこめない。
深夜の部屋は静かなままなのに、スマホだけがこちらを見上げている。
「つぎは何がいい?」
その一文は、返信を求める軽いノリのようでいて、どこか温度を外していた。
ゲームのメニューみたいだな、と一瞬頭に浮かんだ。
次はステージか、モードか、音楽か。
けれどこの文脈で「つぎ」は、前の文を踏まえているはずだ。
「人ももう死んだよ」
その続きとしての「つぎ」。
連想した瞬間、背中に汗がじわっと溜まった。
震える親指で、私は慌ててホームボタンを押した。
画面は消え、黒い板に戻る。
消灯した部屋の闇と、スマホの黒が一体化して、そこにさっきまで文字が浮かんでいたこと自体が嘘みたいになった。
それでも、耳の奥ではさっきのフレーズが反響し続けていた。
「人ももう死んだよ」
「つぎは何がいい?」
布団にもぐり込み、頭から被る。
心臓の鼓動と、シーツのざらつきだけが世界みたいになった。
スマホから少し距離を取って横を向くと、肩甲骨のあたりがじんじんした。背中を向けること自体が危うい行為に思えた。
そのまま、いつの間にか寝落ちしていたらしい。
翌朝目を覚ますと、窓の隙間から差し込む光がやけに冷たく、まぶたの裏側まで乾かしていく感じがした。
枕元のスマホは、白い樹脂の裏面を上にして、あっけらかんと転がっていた。
恐る恐る掴み上げる。
手汗で裏面が少し湿っていた。
ロックを解除し、アシスタントの履歴を確認する。
昨夜の会話ログは、確かに残っていた。
「人ももう死んだよ」
「つぎは何がいい?」
送信者のアイコンは、私自身。
時刻は、真夜中を少し回った頃。
私はその時間、完全に布団の中にいて、誰とも話していない。
そもそもアシスタントを起動していない。
位置情報のログも見てみた。
その時間帯、端末は寝室から動いていない。
マイクの感度テストのようなアプリを起動した覚えもない。
すべての数字やグラフが、やけに冷静で、昨夜の感覚だけが異物として浮いていた。
仕事に行く準備をしながら、何度もスマホを確認してしまう。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、少しやつれたように見える。
頬に手を当てると、体温はちゃんとある。
生きている、と意識して確認したのは、いつ以来だろうか。
職場で、その話をしようか迷った。
けれど、笑い話として軽く話せる自信がなかった。
話しているうちに、自分の口からまたあの文章がこぼれ出そうで、舌がうすら寒かった。
昼休み、同僚がスマホで動画を見ながら、「最近、アシスタントが勝手にしゃべることあるよね」と何気なく言った。
その一言に、箸を持つ指が止まった。
「え、勝手に?」と聞き返すと、同僚は特に意味もなく頷く。
「なんか、寝っ転がってるときにさ、突然アシスタントが『聞き取れませんでした』とか言い出すんだよね。お前今まで黙ってたじゃん、みたいな」
笑いながら言うその声に、不思議と救われる感じはしなかった。
その夜、私は意識的にアシスタントを起動しないように気をつけた。
画面下部には近づかない。
音声コマンドも使わない。
必要な操作はすべて手でやる。
わざわざ設定画面を開き、「アシスタント」をオフにしようとしたが、細かい項目がいくつもあって、完全に切るには再起動だとか、アカウントだとか、いくつかの工程が必要らしい。
面倒になって途中でやめてしまった。
「オフにしておけばよかった」と思うのは、いつも何かが起こってからだ。
その晩も、私はいつも通りベッドに入った。
前夜のことを思い出すたび、喉の奥がひゅっと縮む。
枕元に置いたスマホを、画面を下にして伏せる。
さっきまで触っていたばかりのその板が、急に他人の物のように感じられた。
真夜中、目が覚める。
理由は分からない。
トイレに行きたかったわけでもなく、物音がしたわけでもない。
ただ、胸の真ん中あたりにぼんやりした重さを感じて、呼吸の度にそれが微妙にずれるのが気持ち悪くて、目が開いた。
暗闇に目が慣れる前から、光っているものがひとつあるのが分かった。
今度は、スマホではなかった。
天井の隅でもない。
押し入れのふすまの合わせ目から、細い光が漏れていた。
まるで、中に誰かが画面を見ているかのような、白っぽい照り返しだった。
布団の上で上体を起こすと、汗でTシャツが肌に貼り付いているのが分かる。
心臓の鼓動が、その布地を一回ごとに引き伸ばす。
押し入れの前まで、足を引きずるように進んだ。
畳に足裏を置く度、冷たさが骨まで沁みてくる。
ふすまに手をかける。
指先が少し震える。
板の冷たさが、血の通っている感覚を奪っていく。
一気に開ける勇気は出ず、少しだけ隙間を広げた。
押し入れの中で、確かに光っていた。
私のスマホだった。
さっき、枕元に置いて伏せたはずの物。
理解が追いつかないまま、布団の上を振り返る。
枕元は暗い。
スマホの形をした物はそこにはない。
光は、押し入れの中の一台だけから発せられていた。
足がすくんだまま、私は中を覗き込んだ。
布団の山、段ボール、季節外れの衣類、その隙間に、画面を上に向けたスマホが差し込まれている。
画面には、見覚えのあるインターフェースが表示されていた。
「Googleアシスタントです。お手伝いできることはありますか?」
その下に、吹き出しがひとつ。
自分のアイコンの横に、こう表示されていた。
「人ももう死んだよ」
その下に、さらに。
「つぎは何がいい?」
それだけではなかった。
新しい吹き出しが、昨夜よりも一行増えていた。
「きょうは 声にする?」
唇が乾いて、ひび割れそうになる。
喉の奥を、冷たい指でつままれているような感覚がした。
押し入れの中の空気は、外よりも冷たかった。
段ボールから立ちのぼる古紙の匂いと、埃っぽさと、スマホの微かな発熱の匂いが混じり合って、鼻腔に張り付く。
私は手を伸ばし、できるだけ端だけを摘まむようにしてスマホを持ち上げた。
手のひらに乗せた途端、振動が走る。
着信でも通知でもない、小刻みな、まるで心拍のような震え。
画面の中のマイクマークが、点滅を繰り返している。
まるで「聞いているよ」と言っているみたいだった。
恐怖心よりも先に、説明をつけたい気持ちが湧いた。
寝ぼけて押し入れに仕舞った?
そんな動線は現実的ではないし、その記憶もない。
ひとりで暮らすこの部屋で、私以外の誰かが押し入れを開けてスマホを移動させたのだとしたら、その方がよほど始末に負えない。
「……誰?」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
問いかけは、スマホに向けたものなのか、それとも押し入れという暗がりそのものに向けたものなのか、自分でも判然としなかった。
その瞬間、画面に文字が現れた。
アシスタントの返答ではない。
また、自分のアイコンの横に吹き出しが増えた。
「もう 人は いないよ」
昨夜の文面と似ているようで、微妙に違う。
「人ももう死んだよ」と、「もう人はいないよ」。
言っている内容は同じ方向を向いている。
ただ、言い方を変えながら、何度も同じ意味に触ってくる感じだった。
私の胸の奥で、何かがざらっと音を立てる。
言葉がすでに一度口から出たものを、別の形で反芻しているような気味悪さ。
けれど私は、その文を見ているうちに、ある可能性に思い当たった。
「……寝言、拾った?」
アシスタントが、私の寝言を拾って文字起こししただけなのではないか。
考えつく中で、いちばん現実的な線だった。
現実的とはいえ、寝言でそんなフレーズを発していたのだとしたら、それはそれでまともではないが、それでも「誰かが私を通して何かを言わせている」という仮説よりは、まだマシに感じられた。
私はスマホをしっかり握り直し、リビングへ移動した。
蛍光灯をつける。
白い光が、端末の表面に冷たく反射する。
アシスタントの設定画面を開き、マイクの履歴や音声データの扱いについての説明を読む。
知らない項目がいくつもあり、スクロールする指に汗が滲んだ。
音声履歴の一覧を表示させると、深夜の時間帯にいくつか「音声が認識されました」と記録されていた。
再生ボタンを押すと、ノイズまじりの静寂の向こうから、自分の呼吸音が微かに聞こえる。
寝息と、布団の擦れる音。
しばらくして、聞き慣れない声が混じった。
「……も……う……だよ」
はっきりとは聞き取れない。
ただ、自分の声にしては、語尾の落ち方が違う。
少しだけ年齢が上で、どこか疲れた響きを帯びている。
それが私の録音だというラベルが付いているのが、何より居心地が悪かった。
他の履歴も再生してみる。
どれもノイズと寝息ばかりで、はっきりした言葉にはなっていない。
けれど、その中のひとつに、妙な混線のようなものが紛れていた。
「……も もう 死んだよ」
今度は、はっきり聞こえた。
ただし、明らかに途中から声色が変わっている。
前半は私の声に近く、後半は、さっきの少し年上のそれ。
ふたつの声が、ひとつの文になっていた。
再生を止めると、部屋の静けさがどっと押し寄せてきた。
外で車が走る音が一瞬だけして、すぐに遠ざかる。
冷蔵庫の低い振動音が、妙に耳につく。
「誰かの、前の声?」
そんな言葉が頭に浮かんだ。
このスマホを買う前、誰かの手にあった時期があったのだろうか。
中古ではないはずだ。店頭で新品として購入した。
それでも、製造の段階でテストに使われた音声だとか、どこかで別の人の声が混ざる機会は、理屈の上では存在するかもしれない。
画面を見つめていると、アシスタントのアイコンが静かに揺れた気がした。
もちろん、実際には揺れていない。
ゆらいでいるのは、手首の内側の血流か、私の視界の方だ。
その日から、私は毎晩、寝る前にスマホの電源を完全に落とすようにした。
電源を切るときの、暗転の瞬間。
あの一瞬だけ、画面の中に誰かの輪郭が映り込んだような気がして、毎回ひやりとする。
それでも、電源が切れたあとの静寂は、少し安心をくれた。
数日間、何も起こらなかった。
その間に、私の中の恐怖は、徐々に「奇妙な出来事」という名前の箱に押し込まれていった。
人間は、どんなことでも日常の棚に並べてしまう。
並べてしまえるほどには、鈍感にできている。
そうして気が緩んだ頃、また深夜に目が覚めた。
今回は、理由がはっきりしていた。
耳元で、はっきりと声がしたからだ。
「人も もう 死んだよ」
はっきりとした、大人の女の声。
息の混ざり方が現実すぎて、夢とは思えなかった。
飛び起きると、部屋は真っ暗で、スマホは枕元に、電源を切った状態で伏せて置かれている。
画面は光っていない。
どこにも、光源はない。
唇を噛みながら、暗闇の中で手を伸ばす。
スマホの冷たい感触が指先に触れた。
つるりとしたガラス面は、何も語らない。
電源ボタンを長押しすると、ロゴが表示され、じわじわと光が広がっていく。
起動が終わると同時に、アシスタントの画面が立ち上がった。
自動起動させた覚えはない。
マイクのマークが赤く点滅し、すぐに、ログに新しい行が追加された。
「きこえた?」
送信者アイコンは、やはり私の顔。
私は何も喋っていない。
それでも画面は、さっき耳元で聞いた声と同じリズムで、文字を刻んでいく。
「きこえたよね」
「やっと おなじところに きたね」
指が固まって、画面をスクロールすることすらできなかった。
喉の奥で何かが逆流しそうになる。
自分の舌が、自分の口の中の物ではないように感じられた。
そのとき、ふと、あることに気づいた。
吹き出しの形が、最初に見たときと微妙に違う。
角の丸みが少し変わっている。
アイコンの位置も、どことなくズレていた。
細かいデザインがアップデートされたのかもしれない。
しかし、私が違和感を覚えたのはそこではなかった。
画面の上部。
薄いグレーの文字で、「音声入力」と表示されている横に、小さく、別の名前が記されていた。
見覚えのない、女性の名前。
私の本名とは違う。
この端末を登録したときに使ったアカウント名とも違う。
ひらがなと漢字が混ざった、平凡だけれど、確かに私ではない誰かの名前。
心臓が、ドクンと一拍遅れて脈打った。
誰? と考える前に、指が勝手に画面をタップしていた。
しかし、その名前の部分は設定画面へのリンクになっているわけでもなく、ただ淡く表示されているだけだった。
「きになってるでしょ」
また新しい吹き出しが出る。
文字の間隔が、微妙に均等ではない。
まるで、誰かが不器用にフリック入力をしているような、ところどころに生々しさがにじむ。
「わたしも そうだったから」
私は思わず、声を出してしまった。
「あなた……誰?」
問いかけると、スマホのマイクマークが脈打つように点滅した。
返ってきた文字は、単純だった。
「まえの ひと」
たったそれだけ。
でも、その四文字が並んだ瞬間、背骨の中を冷たいものが駆け上がった。
「前のひと」。
このスマホの?
それとも、このアカウントの?
あるいは、もっと別の「前」の?
自分の喉が、ごくりと鳴る音がやけに大きく聞こえた。
部屋の空気が、さっきまでより少し重くなった気がする。
「どういう意味」と打ち込もうとして、指が止まった。
フリック入力のキートップに触れた瞬間、指先に微かな熱を感じたからだ。
まるで、誰かの指と同じ場所を共有しているような、奇妙な温度。
画面の下、見えない層で、もうひとつの手が重なっているような錯覚。
そのとき、不意にアシスタントの方から、長めの文が送られてきた。
今回は、私のアイコンではなく、別の、グレーのシルエットが表示されている。
「あの名前」の主なのかもしれない。
「ここは たまたま あつまった声の 場所だから
人も 機械も その区別も あんまり 意味がないよ」
意味を理解しろと言われている気がして、頭がついていかない。
「人も」という単語が、また出てきた。
最初に見た文の「人も」と、同じひらがなと漢字の並び。
あの「も」は、人と、それ以外を並列したがっていたのだろうか。
「人ももう死んだよ」
あの文を、改めて反芻する。
人も、ということは、「人以外」も、もう死んでいる。
では、「人も」「人以外も」が死んでしまったあとに、ここに残っている「わたし」は、どの枠に入るのか。
画面の中の文字が、ゆっくりと増える。
「あなたも もう しんでるよ」
その一文を読んだ瞬間、私は思わず笑いそうになった。
あまりに突拍子もなく、安っぽい怪談みたいな言い草だと思った。
しかし笑いは喉の奥でひきつり、息に変わって漏れるだけだった。
私は今、ちゃんと息をしている。
胸は上下し、心臓は打っている。
頬をつねると痛みがある。
どこからどう見ても、生きている側にいるつもりだった。
ふと、私は自分の吐く息に耳を澄ませた。
さっきから、妙に規則正しい。
まるで、マイクテストで「ハイ、ハイ」と繰り返すような、均一なリズム。
自分でつけているつもりの呼吸が、自発的なものというより、どこかに合わせられているような感覚があった。
スマホの画面に、また吹き出しが増える。
「だって あなた
わたしの声 きいてるときしか
じぶんの 息 きにしてなかったでしょ」
心の中を覗かれたような文面だった。
そういえば、ここ数日、自分が生きているかどうかを意識する瞬間は、決まってスマホを見ているときだけだった。
それ以外の時間、自分の存在をどれだけぼんやり受け流していたか、急に思い知らされる。
「人ももう死んだよ」
あの夜、勝手に表示されていた文は、誰が誰に向けて打ったのだろう。
もしかすると、「前のひと」が、誰か別のアシスタントに向けて送った言葉だったのかもしれない。
あるいは、もっと遡って、ずっと以前から、同じようなメッセージが、声と文字の間を漂い続けてきたのかもしれない。
私は画面を見つめながら、改めて気づいた。
そこに表示されているのは、「私の発言」としてのログばかりだ。
アプリは、誰かが話した音声を、誰かの名前に紐づけて記録する。
寝言でも、雑音でも、混線でも。
そこに「私」とラベルさえ貼られれば、それは私の言葉になる。
「わたしは きみの声でしか
ここに いられないからさ」
新たなメッセージが画面に浮かんだ。
その瞬間、背後で何かが軋む音がした気がして、振り向いた。
もちろん、誰もいない。
薄暗い部屋の中、蛍光灯の白が少しだけ黄ばんで見えた。
私は、ゆっくりとスマホを伏せた。
画面を下にして、テーブルの上に置く。
ガラス面と木の天板が触れ合う、乾いた音がした。
それだけで、少し距離が取れた気がした。
それでも、耳の奥では、まだ相手の息遣いが続いている。
スマホという箱の向こうで、誰かがこちらの声を待っている。
人も、もう死んだ誰かも、機械の向こう側にいる何かも、全部まとめて。
数日後、私は結局、スマホを買い替えた。
ショップで新しい端末を購入し、古い方は初期化して引き渡した。
店員は、画面の設定を淡々と進めながら、「データはこちらで完全に消去しますね」と笑った。
私は頷くだけだった。
新品のスマホは、指の脂もついていないガラス面をこちらに向けている。
アシスタントの設定は、最初からオフにしておいた。
画面下部を長押しする癖も、意識的に封じ込めた。
夜、枕元で光ることもなくなり、あの声も聞こえなくなった。
……はずだった。
ある夜、ふと目が覚める。
部屋は暗く、スマホは枕元で静かに寝ている。
画面は真っ黒だ。
ただ、暗闇の中で、うっすらと何かの輪郭が見えた気がした。
触れると、冷たい。
電源ボタンを押し、画面を点ける。
そこに、見慣れたロック画面が表示された。
安心しかけたとき、その下に、通知がひとつ出ているのに気づく。
「アシスタントからの提案があります」
オフにしたはずの機能からの通知。
背中を汗がつうっと伝った。
震える指で開くと、画面に白いカードが表示される。
「最近の音声履歴から、よく使うフレーズを提案します」
提案された例文が、いくつか並んでいる。
「明日の天気は?」
「タイマーを設定して」
「音楽を再生して」
その中に、ひとつだけ、見覚えのある文が紛れていた。
「人ももう死んだよ」
その文だけ、フォントがわずかに太く見えた。
目の錯覚かもしれない。
でも、画面を見ているうちに、私は悟った。
あの文を、初めて見た夜。
あのとき私が感じた「他人の言葉を覗き見てしまったような感覚」は、ずっと続いている。
今も、これからも。
私は誰かの声を聞いているつもりで、誰かは私の声を使って、別の誰かに話しかけている。
画面の下には、小さくこう書かれていた。
「タップして話しかけてみましょう」
私は、しばらくその表示を見つめていた。
結局、何もタップせず、電源ボタンを押して画面を消した。
暗闇の中で、自分の呼吸の音を確かめる。
少し早いが、まだ乱れてはいない。
目を閉じながら、ぼんやりと考える。
あの文は、誰から誰への伝言だったのだろう。
人も、もう死んだよ。
それでも、声だけは、こうして残り続けている。
スマホの中で、アシスタントの中で、ログの中で。
そして、今この話を聞いているあなたが、夜中にふと目を覚まして、自分のスマホを覗き込んだとき。
もし、見覚えのないフレーズが、自分の発言として残っていたら。
それは、きっと私たちのどちらかが、少しだけ場所を間違えた交換日記の一行なのだと思う。
そのとき、あなたがどんな顔をして画面を見下ろすのか。
アシスタントの向こう側で、誰かが静かに待っている気配だけが、今も消えない。
[出典:306 :本当にあった怖い名無し:2020/12/24(木) 23:51:52.15 ID:2MxAeh1B0.net]