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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

……ついてきてますよね、これ n+

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今でも、あの乾いた響きだけは耳の奥に残り続ける。

子どもの頃から、私は何かのきっかけになる場所を通るだけで、妙な反応が起きていた。火災報知機の赤いガラスがかすかに熱を帯びるように見えたり、積み上げられた段ボールの角がわずかに揺れて、私が歩き去る数秒後に崩れたり。
静かにしているつもりでも、呼吸の重さすら引っかかってしまうような、そんな感じが続いていた。

その日は夕方、仕事帰りのスーパーの通路で、蛍光灯の光が冷たく床に染み込んでいた。乾燥した空気のはずなのに、棚の一角だけ湿った匂いが漂い、足裏がじんわり重たくなる。そこに、カップ麺が塔みたいに積まれていた。
私は距離をとって歩く。
慣れているからだ。
何かが起きる、というより「起きてしまう」感じに、そろそろ折り合いをつけていた。

通り過ぎた瞬間、背後でざらついた摩擦音が起きた。
振り返らない。
いつも通りだ。
落下音が連鎖し、棚板まで震え、床のタイルがかすかに鳴った。
店員の吐息まじりの呻き声が遠くで漏れる。
それでも私は足を止めない。

しばらくして、出口へ向かおうと同じ通路へ戻ったとき、さっき崩れ落ちたカップ麺は見事に積み直されていた。店員の腕が小刻みに動き、仕上げの一個をそっと頂点に置くところだった。
その瞬間だけは、空気がきれいだった。
整えたものに向けて、店員の背中がほっと緩んでいた。

二メートルほど離れて、私は脇を通る。
その一歩目で、わずかに風が揺れた。
二歩目で、棚全体が柔らかく沈むような気配がした。
三歩目を踏んだとき、音は爆ぜるように始まった。

店員が「あれ……?」と呟く声が聞こえ、振り返ったときにはもう、塔はすっかり原型を留めていなかった。
整ったものがほどける音。
ほどけた先がどこへ向かうのか、私にはわからない。
ただ、私がそこにいた、ということだけが残る。

だが、あの日はひとつだけ違った。
崩れたカップ麺の間から、店員が床を見下ろして固まっていた。
視線の先にあるものを、私はまだ知らない。
そこから先が、この話の本当の始まりだった。

店員の足が止まっていた理由を、最初は理解できなかった。

私の位置からは床が陰になり、散乱したカップ麺の包装が蛍光灯を鈍く反射しているだけに見えた。けれど、店員の肩がわずかに震え、視線だけが一点に縫いつけられていた。
あの反応は、ただ商品が崩れたときの苛立ちとは違う。
もっと、薄い皮膚の裏側がざわつくような気配だった。

私はゆっくり歩みを寄せた。
近づくたび、床から上がる冷たい気配が靴底を通して脛に触れてくる。
店内は空調が効いているのに、その一点だけ湿気を帯びていた。
崩れた商品を避けて覗き込んだ瞬間、足裏がひやりと滑るような感覚が走った。

床に、細い跡があった。
髪の毛のように細い線が、タイルの溝をなぞるように引かれている。
指で触れれば消えてしまいそうなほど脆い線なのに、妙に存在感がある。
店員はそれを見て、吐息に近い声で言った。

「……さっきは、なかったはずなんです」

いつからあったのか、どうやってできたのか、判断できない跡だった。
ただ、線は私の足元へ向けて伸びてきていた。
まるで、崩れた商品が落ちた衝撃とは無関係な方向へ、わずかな力が床を引きずったかのように。

私は跡を踏まないようにして、少し距離を取った。
体温のどこか一部が、遅れて沈むような感覚がある。
さっきまで確かに自分のものだった時間が、少しずつ曖昧になっていく。
通路の空気が微かにざわつき、商品棚の金属が熱でもないのに呼吸するように膨らんだ。

店員が崩れたカップ麺を拾うたび、包装の擦れる音が不自然に引き伸ばされて聞こえる。
距離があるのに、耳もとで鳴っているような近さだった。
その音が続くほど、跡の線は少しずつ幅を増していくようにも見えた。

私は視界の端で揺らぎを見た。
誰かが棚の向こうを通ったような気配。
だが、通路の終わりに人影はなかった。
次の瞬間、私の背後にある空気が微かに押し出され、シャツの背が吸い寄せられるように動いた。

通り道が、どこかに伸びている。
昔から、私の近くで物が動くときには必ず、こうした微細な“流れ”が生まれる。
引き金はいつも私なのに、動いていくのは周囲だった。

店員がカップ麺をひとつ拾い上げ、手からわずかに離れた瞬間、商品はふわりと揺れた。
まるで空気の中に細い指があり、重力とは別の方向へ商品を押したような形だった。
店員は「あっ」と短く声を漏らして手を伸ばしたが、届く前にそれは床に落ちた。

店員が妙な目つきで私を見る。
疑いではなく、理解できないものを前にした時の、立ち位置を失う視線だった。
私は口を開きかけたが、その瞬間、通路の奥で“何か”がわずかに鳴った。

棚の奥に置かれた在庫の段ボールが、ほんの少しだけ浮くように傾いた。
そして——また沈む。
誰かが触れたような速度ではない。
空気のゆるやかな流れに乗って動いたような、不自然に自然な動きだった。

店員は背筋を固くしたまま動かない。
私は一歩、線から離れてみた。
すると沈黙の中で、床の細い跡が一瞬だけ伸びた気がした。
私の足の方向へ、ほんの数ミリ。

私はようやく気づいた。
店員の目線が私に固定されたのは、
私が“原因”だと悟ったからではない。
もっと別の理由だった。

彼の視線の焦点は、
私の靴のすぐ横、床の線の少し先——
そこに“何か”がいるかのような位置を捉えていた。

誰もいない空間に、誰かが立っているような配置。
そしてその“誰か”が、私の動きに合わせてほんのわずかにずれる。
それが線となり、商品を押し、棚を鳴らしていたのかもしれない。

店員は震える声でつぶやいた。

「……お客さんの後ろ、誰か……います?」

私は振り返らなかった。
振り返ってしまったら、何が見えるのかを想像できてしまったからだ。
私の背中に、そっと呼気のような温度が触れた。

息を吸うと、背中に貼りついた温度がわずかに動いた。

あたたかくも冷たくもない、皮膚の裏だけが沈むような質感。
それは私の呼吸に合わせて、ほんの少しだけ位置を変えていた。

振り返らない。
その判断だけが、身体のどこか別の場所で決まっていた。
視界の外側にある“誰か”の輪郭を、想像で形にしてしまうのを恐れていた。
恐れといっても、心臓の跳ねではなく、
今までずっと気づかないふりをしてきたものに触れてしまう感覚に近い。

店員は一歩も動けないまま、私の背後の一点を凝視していた。
視線が刺さる。
それは、目に見えない誰かの輪郭をなぞるような線を描きながら、
私と店員の間に硬い沈黙をつくった。

私が一歩下がると、その温度も一緒に下がった。
床の細い跡も、ほんの少しだけ延びる。
動くたび、線は私の歩幅に合わせて、
二〇年近く続いてきた違和感そのままの速度で引かれていく。

「……ついてきてますよね、これ」
店員の声は空気に沈んでいった。
驚きよりも、理解を拒む音だった。

私は返事をしなかった。
できなかった。
自分の背後にあるものが店員に“見えている”という事実が、
今まで一度も考えなかった角度から私を刺してきた。

子どもの頃からの小さな異変——
火災報知機の誤作動、積み上げた物の崩落、
人が通っていないのに棚だけがたわむ。
それらはすべて、私が動いた瞬間に起きていた。

だが本当は、
私が引き起こしていたわけではなかったのかもしれない

私は棚の横をそっと離れた。
その瞬間、背中の熱が、肩甲骨の中央にふわりとのしかかった。
店員が息を呑む。
線が、私を追うように伸びる。

入口の自動ドアが、まだ距離があるのに反応して開いた。
風が一瞬だけ逆向きに流れ、私の背中側に吸い込まれる。
まるで、何かが先に通ったような挙動。

歩くたび、靴の底がかすかに震えた。
背後の存在が、私の動きにぴったり寄り添っている。
それは、店内の照明がわずかに揺れるたび、肩越しの影だけがずれる感覚となって現れた。

店を出る前にもう一度通路を振り返ると、
店員はまだ床の跡を見ていた。
崩れたカップ麺の散乱した中心に、一本の線が続いている。
それは、私の立っていた位置で終わっていた。

帰り道、背後の温度はついてきたままだった。
昔からずっとそうだったのだろう。
ただ、誰もそれを“見た”ことがなかっただけで。

ふと気づいた。
今まで、物が崩れる瞬間を私は見たことがない
必ず、私が通り過ぎたあとに起きていた。
まるで、何かが“私に合わせて移動した結果”として、
あとから周囲が動いていたかのように。

家に着き、玄関の鍵を回したとき、
背中の温度がようやく離れた。
ゆっくりと、まるで部屋の中に入り込むように。
気配はそのまま、靴の横をすり抜けて奥へ消えた。

私は靴を脱いで、ふと足元を見る。
タイルの隅に、細い跡がひとつ延びていた。
スーパーの床と同じ細さ。
私のかかとを追って伸びた線の続き。

その瞬間、ようやく理解した。
店員が最後に向けていた視線の正体。
彼が見ていたのは——
私の後ろにいた“それ”ではなく、私と“それ”の距離だったのだ。

ずっと寄り添っている。
私が歩けば動き、離れれば線を引く。
他の誰かにも、時折“見える”ことがある。

店員が怯えた理由は、そこだったのだと思う。
私の背後にある“誰か”が怖かったのではない。
私と“それ”が、どれほど近いかが見えてしまった
それが、いちばん異常だったのだ。

今もときどき、自宅の床で線が伸びる音がする。
軽い摩擦音。
人が歩くにはあまりにも細い軌跡。
あれが何なのか、私は今でも言葉にできない。

ただひとつだけ言えるのは、
あの日の店員が見た位置と、
今の“それ”の位置が、
ほとんど変わっていないということだけだ。

[出典:135 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.4][新芽]:2024/10/30(水) 11:51:07.26ID:lVv3wil60]

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