玄関を開けた瞬間、胸の奥にあの夕暮れが貼りついた。
実家は古い日本家屋だった。間口は広く、奥へ奥へと細長い。廊下の板は痩せ、踏めば乾いた音を立てる。障子は茶色く濁り、昼でも光は薄い。梁が落とす影が部屋の隅に溜まり、そこだけ時間が沈んでいるように見えた。
あの日、学校から帰って引き戸を開けたときも、家はいつも通りそこにあった。
ただ、音だけがなかった。
祖母の「おかえり」も、母の足音も、台所の湯気も、祖父の咳払いもない。奥まで見通せる廊下が、息を止めている。
出かけると聞いていない。なのに家の中は空洞だった。息を吸うたび、胸の内側を指で押されるような圧迫が広がる。
奥へ行かなければならない。
理由はない。けれど、その考えだけが、はっきりしていた。行かなければ、ここに立っていること自体が間違いになる。そんな焦りが足を動かす。
靴を脱ぎ、廊下に上がる。襖を開ける。すぱん、と乾いた音が響く。次を開ける。すぱん。さらに、すぱん。
三つ目を開ければ奥座敷のはずだった。だが、部屋は続いた。見慣れた畳の匂いが同じなのに、距離だけが延びていく。
開けても、まだ先がある。
振り返らない。振り返れば、何かがそこに立っていると知っていたからだ。
喉がひゅうと鳴る。息が浅い。足が止まらない。襖の音だけが規則正しく家を刻む。
やがて、行き止まりに突き当たった。
奥座敷だった。
仏壇が暗がりの中で輪郭を持っている。光と呼ぶほどではない。ただ、そこだけが見える。
そこで、ようやく気づく。
ここへ来ること自体が、間違いだった。
引き返そうと振り向いた。
廊下が長い。
開け放った襖が、いくつも並び、その脇に、同じ背丈の影が立っている。
白い衣。腕が長い。膝の下まで垂れている。顔はあるはずなのに、焦点が合わない。目を向けると、輪郭がにじむ。
動いていない。
ただ、こちらを見ている。
私は後ずさる。足の裏が畳を擦る。影は近づかない。だが、距離が縮まっている気がする。
一番手前の影が、わずかに傾いた。
逃げなければならない。
玄関はあちらだと分かっている。けれど、廊下の向こう側が本当に外に通じているのか、急に自信がなくなる。
それでも走る。
目を閉じ、最前列の影に向かって飛び込む。
冷たい。
腕だった。
長い腕が、胸の前で交差し、背中を包む。力は強くない。ただ、離さない。
耳元で、湿った息が触れる。
「おかえり」
声は女だった。
祖母の声でも、母の声でもない。けれど、知っている気がした。
襖が、後ろで一枚、閉じる音がする。
目を開ける。
玄関に立っている。
祖母と母がこちらを見ている。「どうしたの、早く入りなさい」と言う。
私は一歩、上がり框に足をかける。
その瞬間、背中に、あの腕の重さが戻る。
振り返る。
廊下は短い。襖は三枚だけ。奥座敷も、いつもの距離だ。
ただ、母と祖母の立つ位置が、少し奥すぎる。
玄関から、あんなに離れていただろうか。
二人は動かない。
「おかえり」
同時に言った。
声が重なった。
私は、まだ、玄関にいる。
靴を脱いだ記憶がない。
それなのに、背中には腕の感触がある。
家の中に入ったのか、迎えられたのか、それとも、まだ立たされたままなのか。
今も実家に帰るとき、私は必ず一度、玄関で立ち止まる。
あの家は、誰を外に出し、誰を中に入れるのか、決めている気がするからだ。
そして毎回、同じ声が聞こえる。
「おかえり」
それが、本当に私に向けられているのかは、確かめたことがない。
[出典:53 :本当にあった怖い名無し:2022/03/10(木) 17:09:44.14 ID:l9PAXCBH0.net]