子どもの頃のことを思い返すと、必ずあの夕暮れが胸の奥にねっとりと張り付いてくる。
実家は、地方の古い日本家屋だった。間口は広く、奥行きはやたらと長い。廊下は板が痩せ、踏むとぎい、と鳴る。障子は茶色くくすみ、窓から入る光はほとんど濁った色をしていた。昼間でも、天井の梁が影を落とし、部屋の隅は闇に溶けていた。だから夜になると、家はさらに重く沈み込み、トイレに行くにも勇気が要った。
あの日も、学校から帰ってきて玄関を開けた瞬間、いつもの景色がそこにあるはずだった。
「おかえり」と必ず言ってくれる祖母の声。
「学校からのお手紙出して」と、せわしなく近づく母の足音。
台所で湯を沸かす音、奥の部屋で新聞をめくる祖父の気配。
それらすべてが、不自然に消えていた。
玄関から奥まで、しん、としている。
家の中が死んだように静かだった。
出かけるなんて聞いていない。なのに、息を吸うたび、心臓の奥を指で押されるような圧迫感が広がっていく。
何かがいる——そう思った瞬間には、もう全身が冷えていた。
理由もないのに、奥座敷へ行かねばならないと感じた。
行きたくないのに、行かねばならない。
頭の中で、誰かがそう囁くような感覚だった。
行かなければ、もっと怖いことが起こる……そんな脅迫めいた焦燥が、背中を押してきた。
震える手で靴を脱ぎ、廊下に足を踏み入れる。
襖を開ける。
すぱん、と音がして、一つ奥の部屋が現れる。
さらに開ける。すぱん、すぱん、とリズムを刻むように。
その音に重なるように、遠くから太鼓の響きが聞こえ始めた。
どん、どん、どん……。
近くではない。村はずれの祭りのような距離感。
けれど、それが妙に胸を締めつけ、急かす。もっと早く、もっと先へ。
足が勝手に襖を開け続ける。
いつもなら三つも開ければ奥座敷のはずだ。
なのに、部屋の数は尽きない。
開けても開けても、まだ先がある。
「こんなに部屋は無かったはずだ」と思う暇すらなく、ただ焦燥だけが膨らんでいく。
息は浅く、喉がひゅうひゅう鳴る。
太鼓は大きく、耳の奥で耳鳴りと絡まり、音が飽和していく。
どれほど進んだのかわからない。
ふいに、行き止まりが訪れた。
そこが奥座敷だった。
薄暗く、空気が冷えている。
その中で、仏壇だけがぼんやりと輪郭を浮かべていた。
光、と呼べるほど強くはないのに、そこだけが確かに見える。
胸の奥で何かが跳ねた。
「ここにいてはいけない」と、ようやくはっきり思えた。
引き返そう。玄関に戻って、外に出て、友達の家か公園に——。
振り返った瞬間、背筋が凍った。
廊下が長い。長すぎる。
開け放った襖が、いくつも、いくつも続いている。
そのひとつひとつの横に、人影が立っていた。
白い衣をまとった男たち。神主のようにも見える。
ただし、腕が異様に長い。床を引きずるほどではないが、膝よりも下まで垂れ下がっている。
顔は見えるはずなのに、目がうまく合わない。輪郭がにじんでいる。
外では太鼓が鳴り続け、耳鳴りはひゅうひゅうと絡み合い、頭蓋骨を内側から叩く。
幼い私はもう限界で、泣きながら後退った。
そのとき、手前の影と目が合った——ような気がした。
瞬間、太鼓も耳鳴りも、すっと消えた。
静寂が落ち、家全体が息を潜める。
それでも、逃げねばと思った。
玄関へ向かう廊下の襖が、すぱん、すぱんと閉じられていく。
道が塞がれていく。
「助けて、助けてください」と泣き叫ぶ声は、自分のものなのに遠く聞こえた。
一番手前の男は動かない。ただ立って、こちらを見ている。
私は、そこを抜ければ外に出られると信じて、目を閉じ、全力で駆け抜けた。
通り抜けようとしたその瞬間、冷たいものが全身を包んだ。
それは腕だった。
異様に長い腕が、私を抱きしめていた。
襖が閉じられる音が最後に一つ。
残されたのは奥座敷への入口だけ。
「もう助からない」——そう思った瞬間、抱きしめる力がぐっと強まった。
耳元で、湿った獣のような匂いとともに、息がかかる。
それは笑っているようにも感じられた。
そして、高く澄んだ女の声が耳に触れた。
「おかえり」
視界が暗転した。
気がつくと、玄関で立ち尽くしていた。
目の前に祖母と母がいて、覗き込むように「どうしたの、早く入りなさい」と言っていた。
足は冷えきり、手のひらには、あの冷たい腕の感触がまだあった。
生ぬるい息と匂いも、消えていなかった。
今も実家に帰るたび、玄関の木枠に触れると、あの日の抱擁を思い出す。
あれは、私を引き留めたのか、それとも迎え入れたのか。
それだけは、まだわからない。
[出典:53 :本当にあった怖い名無し:2022/03/10(木) 17:09:44.14 ID:l9PAXCBH0.net]