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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

口入の扉 n+

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小学生の頃の体験を、今でも鮮やかに覚えている。

四年か五年の頃だったと思う。鍵っ子で、学校が終わると自分で団地の部屋に帰っていた。住んでいたのは七階建ての古い公団住宅で、灰色のコンクリートがいつも湿気を含んでいて、雨の日には壁から土の匂いが立ちのぼった。

その団地には妙な造りがあった。エレベーターが一、三、五、七階にしか止まらないのだ。六階に住んでいたうちの家に帰るためには、五階で降りて、一階分を歩いて上がらなければならなかった。小さな頃はそのことが不満で、何度も「どうして六階に止まらないんだろう」と不思議に思ったけれど、いつしかそれが当たり前になっていた。

あの日も、同じように学校から帰る途中だった。友達から借りた『ドラゴンボール』の単行本を手にしていて、歩きながら夢中になってページをめくっていた。街路樹の影が紙面に揺れて、ふと見上げると団地の無数の窓が夕方の陽を反射していた。どこかぼんやりと、しかし確かに胸を躍らせていた。

団地に入ると、無意識のままエレベーターへ向かい、錆びた扉の前で待った。中に入って五階のボタンを押す。ガタン、と古びた機械が動き出し、俺は再び漫画に目を落とした。

数ページをめくったころ、ドアが開く音がした。いつものように顔を上げ、降りようとしたその瞬間、目に飛び込んできた光景に息が止まった。

そこは見慣れた団地の廊下ではなかった。
照明のない薄暗がりの中、真正面には重々しい鉄扉がひとつだけ、沈黙するように立ちはだかっていた。扉は古く、表面が黒ずみ、どこか湿ったように見えた。その扉に、札が一枚貼り付けられていた。

白く汚れた紙に、太い筆文字でこう書かれていた。

   口 入

奇妙な文字の並び。何かの合図のようにも、呪いの言葉のようにも読めた。背筋がひやりと凍り、呼吸が浅くなる。どういう意味なのかも分からない。ただ、そこに立ち尽くしていると、何かに呼び込まれるような感覚が強くなっていった。

エレベーターの階数表示を見上げると、どの階のランプも灯っていない。機械が壊れたわけでもないのに、どこにも存在しない場所に来てしまったのだと悟った瞬間、手から漫画が滑り落ちそうになった。

動けなかった。背筋を伝う冷汗が、膝の裏にまで達するのを感じた。どれくらいそうしていたのか分からない。すると唐突に、エレベーターのドアが音もなく閉じた。

世界が切り替わる。再び開いたドアの向こうには、見慣れた五階の廊下が広がっていた。夕陽の光が差し込み、洗濯物が風に揺れている。そこに人の気配が戻った瞬間、押し殺していた感情が爆発した。

泣きじゃくりながら走り出し、六階までの階段を必死に駆け上がった。鍵を震える手で開け、部屋に飛び込むと布団をかぶって震えていた。母が帰るまでの数時間が、永遠に思えるほど長かった。

母に話すと「悪い夢でも見たんじゃないの」と一笑に付された。夢、という言葉で説明できるのならどれほど楽だったろう。だが、あの鉄扉と札の文字の黒々とした筆跡は、目を閉じても鮮明に蘇った。

しばらくの間、エレベーターに乗れなかった。団地の階段は狭く、照明も暗かったが、それでもそちらの方がましだった。六階まで毎日息を切らして登り、振り返っては誰かが背後に立っているのではないかと怯え続けた。

年月が過ぎ、大人になってからようやく「入口」という言葉の古い表記に「口入」というものがあると知った。あの札に書かれていたのは、その意味だったのかもしれない。しかし、なぜ団地のエレベーターが見知らぬ扉へと導き、その場所で旧い言葉が待ち構えていたのか、今も説明はつかない。

もしも、あの時、一歩踏み出して扉に手をかけていたら。
あれは本当に「入口」だったのか。どこへの入口だったのか。考えるたび、胸の奥に冷たい空洞が生まれる。

あるいは、俺自身がもうあの時に別の場所へ足を踏み入れてしまっていて、今こうして語っている俺は、もしかするとその扉の向こうから戻ってきたものなのではないか……そんな不吉な思いが、今も時折、夜更けに頭をもたげる。

――エレベーターの鈍い駆動音を耳にすると、無意識に鼓動が速くなる。あの鉄扉が、また開いて待っているのではないかと思ってしまうからだ。

[出典:920 :本当にあった怖い名無し:2008/01/30(水) 02:42:49 ID:qFBUVW5x0]

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