小学生の頃の体験を、今でも鮮やかに覚えている。
四年か五年の頃だった。鍵っ子で、学校が終わると一人で団地の部屋に帰っていた。七階建ての古い公団住宅で、灰色のコンクリートはいつも湿り気を帯び、雨の日には壁の奥から土の匂いが立ち上った。
その団地のエレベーターは奇妙だった。一階、三階、五階、七階にしか止まらない。六階に住んでいたうちは、五階で降りて階段を一つ上がるしかなかった。理由を考えたこともあったが、いつの間にか「そういうもの」として受け入れていた。
あの日も、学校帰りだった。友達に借りた『ドラゴンボール』の単行本を読みながら歩いていた。夕方の光がページに揺れて、団地の窓が一斉に光を返していた。胸が浮き立つような、根拠のない高揚感があった。
エレベーターに乗り、五階のボタンを押す。ガタンと揺れ、機械が動き出す。視線はすぐに漫画へ戻った。
何ページか進んだところで、ドアが開いた。
顔を上げた瞬間、体が固まった。
そこは、団地の廊下ではなかった。照明はなく、奥行きの分からない薄暗がりが広がっている。その正面に、鉄の扉が一つだけ立っていた。重く、黒ずみ、湿ったような光を帯びている。壁も床も、どこか曖昧で、距離感が掴めなかった。
扉には紙切れが一枚、歪んだ形で貼られていた。
太い筆で書かれた文字。
口 入
意味は分からなかった。ただ、読めてしまったことが嫌だった。胸の奥が冷え、息が詰まる。扉の前に立っていると、こちらが呼ばれているのではなく、もう呼ばれた後なのだという感覚が湧いてきた。
ふと、エレベーターの階数表示を見た。どの数字も点いていない。上でも下でもない。止まっているのに、到着していない。そう理解した瞬間、手に持っていた漫画が重く感じられた。
動けなかった。時間の感覚が消え、汗だけが背中を伝った。
不意に、音もなくドアが閉じた。
次に開いたとき、そこにはいつもの五階の廊下があった。夕陽が差し込み、洗濯物が揺れている。誰かの生活の気配が、はっきりと戻ってきた。
走った。泣きながら階段を駆け上がり、六階の部屋に飛び込んだ。鍵をかけ、布団に潜り込み、息を殺して震えていた。母が帰るまでの時間が、異様に長かった。
話しても、取り合ってはもらえなかった。それでよかったのかもしれない。言葉にした瞬間、あの場所がこちら側に近づいてきそうな気がした。
それからしばらく、エレベーターには乗れなかった。毎日階段を使った。狭く暗い踊り場で、背後を振り返る癖がついた。
大人になった今でも、エレベーターの駆動音を聞くと、体の奥が先に反応する。数字が一瞬でも消えたように見えると、息を止めてしまう。
あの扉がどこにあったのかは、今も分からない。ただ、あの団地の構造は変わっていない。今も六階には止まらない。
だから時々考える。
あのとき開いたのは、本当に五階だったのか。
それとも、戻ってきた先が、すでに違っていたのか。
考えないようにしているだけで、確かめていないだけで、エレベーターは今も、どこか別の階に止まり続けているのかもしれない。
そして次に、表示が消えたまま扉が開いたとき、
今回は見なかったことにできる自信が、俺にはない。
[出典:920 :本当にあった怖い名無し:2008/01/30(水) 02:42:49 ID:qFBUVW5x0]