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まず口元を見る rw+1,928

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小学校三年生の秋、音楽室で見たものを、四十年以上経った今でも忘れられない。

そのせいで私は、いまだにシューベルトの肖像を正面から見ることができない。

当時、私は愛媛県のある市に住んでいた。第二次ベビーブームの頃で、学校には児童があふれていた。一学年に八クラス、ひとクラス四十人近く。三階建ての鉄筋校舎が三棟、そのほかに木造二階建ての校舎まであり、それぞれが渡り廊下で繋がっていた。

音楽室は、南から二番目の校舎の三階、一番東の端にあった。

東側の壁には、作曲家の肖像画が並んでいた。バッハ、ベートーヴェン、シューベルト。全部で十数枚はあったと思う。

B四判ほどの厚紙に描かれた水彩画だった。授業中に顔を上げると、必ず誰かの顔が視界に入った。

私は霊感などない。

だが、その音楽室だけは嫌だった。

カーテンを全部開け、蛍光灯を点けても薄暗い。授業を受けているあいだ、後ろから誰かに見られているような感じが消えなかった。

同じことを言う友人も何人かいた。

先生には何度か訴えた。

「なんか、この部屋、変です」

そのたびに先生は笑った。

「気のせい、気のせい」

そう言われ続けるうちに、私は音楽の授業そのものが嫌いになった。

とくに一時間目が音楽の日は憂鬱だった。朝、まだ校内に人の少ない時間から、あの部屋へ行かなければならない。

秋も深まった、ある朝だった。

その日も一時間目が音楽だった。

教室には、まだ数人しか来ていなかった。私は窓際の自分の席に道具を置いた。

そのとき、後ろのほうで女子が声を上げた。

悲鳴というほど大きな声ではなかった。ただ、いつもの話し声とは明らかに違っていた。

振り返ると、数人の女子が床を見ながら後ずさっていた。

私も近づいた。

床に白っぽいものが落ちていた。

最初は、小さな芋虫だと思った。

そのすぐそばに、濃い赤色の跡があった。

もう少し近づいて、それが何なのか分かった。

人間の小指だった。

爪がついていた。

切れたところから、白い芯のようなものが見えていた。

すぐには理解できなかった。

作り物ではないかと思った。誰かの悪戯なら、それでよかった。

だが、近くまで行くと鉄のようなにおいがした。

誰かが床を指した。

赤い跡が続いていた。

指の周りだけではない。

血のようなものが細い筋になって、床を横切っていた。ぽたりぽたりと落ちた跡ではなかった。何かを引きずったように擦れながら、壁まで続いていた。

赤い筋は、壁に着いて終わっていなかった。

そこから上へ伸びていた。

私は顔を上げた。

バッハ。

ベートーヴェン。

その隣に、シューベルトがいた。

口が赤かった。

肖像画の唇から、細い赤い筋が垂れていた。

紙が濡れていた。

水彩絵の具ではない。そこだけ色が違った。赤黒いものが口元から顎へ滲み、さらに下へ伸びていた。

床に落ちている小指。

そこから続く赤い筋。

壁を上り、最後はシューベルトの口に繋がっていた。

誰かが先生を呼びに走った。

私は動けなかった。

肖像画は、三年生の子供では届かない高さに貼られていた。

しばらくして先生が駆け込んできた。

まず床を見た。

次に壁を見た。

最後に、シューベルトを見た。

先生の顔から表情が消えた。

何も言わなかった。

そのまま教室を出ていった。

その日の音楽の授業は中止になった。

学校の中が騒がしかったことは覚えている。大人が何人も出入りしていたような気もする。警察が来ていたのかもしれない。

だが、小学三年生だった私たちには何も知らされなかった。

翌日、音楽室を覗いた。

最初に感じたのは、壁が広くなったことだった。

作曲家の肖像画が、一枚もなかった。

バッハも、ベートーヴェンも。

シューベルトも。

床の小指は消えていた。

赤い跡も残っていなかった。

先生に何があったのか聞いた。

答えてはくれなかった。

ただ一言、

「あまりこの話はしないように」

と言われた。

それから、その音楽室で授業を受けることはなかった。

別の部屋が音楽室として使われるようになった。

なぜ部屋まで替えたのか。

あの小指は誰のものだったのか。

なぜ作曲家の肖像画を全部外したのか。

何ひとつ知らされないまま、私はその学校を卒業した。

あれから四十年以上経った。

テレビでも本でも、シューベルトの肖像を見ることはある。

本物の肖像は、あの日学校に掛かっていた水彩画とは違う。

それでも私は、シューベルトを見ると最初に口元を確認してしまう。

赤いものが垂れていないことを確かめる。

それからでなければ、目を見ることができない。

[出典:99 :シューベルト:2022/03/12(土) 13:55:23.48 ID:L2zLOUTS0.net]

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