私の魂に刻まれた最も古い記憶の断片は、三歳という幼い刻。
木枯らしが荒涼と吹きすさぶ、鉛色の空に覆われた夕暮れ時。誰もいない公園のブランコに、私はただ一人、小さな体を揺らしていた。凍てつく風が容赦なく肌を刺し、手も足も感覚を失うほどにかじかんで、血の気が引いていくのがわかる。それでも、家に帰ることはできなかった。帰れば、母の怒声と暴力が待っているだけだから。心の奥底で、祖母が迎えに来てくれることを切に願っていた。この公園は、いつも二人で散歩に来る場所。だからきっと、祖母ならすぐに私を見つけ出してくれるはずだと、か細い希望に震えていた。やがて、風に身を任せているのか、ブランコの揺れに弄ばれているのか、その境界さえ曖昧になっていく。意識が遠のくような、冷たい孤独感だけが、幼い私を支配していた。
私の日常は、母からの虐待という名の嵐の中にあった。飲み物をほんの少しテーブルにこぼしただけで、廊下を歩く足音がほんの少し大きかっただけで、無邪気に声を立てて笑っただけで、母の形相は鬼のように変わった。それは「折檻」という名の、理不尽な暴力の始まりの合図だった。彼女の気が済むまで殴られ続け、時には安全ピンの鋭い針先が、私の幼い尻に幾度も突き立てられた。真冬の凍えるような日に、裸で水風呂に突き落とされたことも一度や二度ではない。無理やりタバコを咥えさせられ、むせ返る私を見てせせら笑い、熱い灰を背中に押し付けられる痛みは、今も皮膚の記憶に焼き付いている。食事を与えられず、空腹に耐えかねて泣き叫べば、冷たい夜の闇の中へと家から閉め出された。
怒りに顔を歪ませ、私に向かって拳を振り上げる母の瞳の奥には、どこか歪んだ喜びの色が浮かんでいるように見えた。その傍らで、父はいつも見て見ぬ振りを貫いた。私が母の失敗をなじられ、床に転がされて何度も蹴り上げられているそのすぐ横で、父はテレビのバラエティ番組に目を向け、平然と夕食の箸を進めていた。母の暴力が終わると、父は決まって「お母さんの言うことをちゃんと聞きなさい」と、感情の欠片もない声で私に告げるだけだった。
この地獄のような日々の中で、私に救いの手を差し伸べてくれたのは、ただ一人、祖母だけだった。折檻によってできた無数の痣や傷に、祖母は優しく薬を塗り、痛みに震える私を温かい布団で抱きしめて眠ってくれた。時には、私を庇い、母の怒りの矛先を自ら引き受けて、代わりに蹴られてしまうことさえあった。その光景を目の当たりにした時、私の心は恐怖と絶望で張り裂けそうになり、ただ泣きじゃくることしかできなかった。「お前のせいで痛い目にあった」と、今度は祖母に叱られるのではないか。それ以上に、こんな私を、祖母はもう嫌いになってしまうのではないか。その想像は、幼い私にとって息が詰まるほどの恐怖だった。
二人きりで部屋に戻ると、私は泣きながら祖母の痣だらけの足に震える手で湿布を貼った。「私が殴られても大丈夫だから、お願いだから、もうやめて」と、必死に訴えた。何よりも、この世界で唯一私を愛してくれる祖母に嫌われることが、私にとっては死ぬことよりも怖かったのだ。祖母はそんな私を強く抱きしめ、声を殺して泣いた。そして、その夜も、私たちは同じ布団で身を寄せ合って眠りについた。
あれは、おそらく私が五歳になった頃のことだろうか。ふと真夜中に目を覚ますと、隣で眠っているはずの祖母の姿がなかった。きっとトイレにでも行ったのだろうと思い、私は再び目を閉じた。しかし、しばらく待っても、祖母が戻ってくる気配はない。言いようのない不安が胸をよぎった。もしかしたら、また母に何か理不尽な仕打ちを受けているのではないか。そう思うと、居ても立ってもいられなくなり、私はそっと布団から抜け出した。
音を立てないように、抜き足差し足で襖を開け、暗闇に包まれた家の中を祖母を探してさまよった。どこにもぶつからないように、息を殺して細心の注意を払った。母に気づかれれば、また想像を絶する暴力が待っている。トイレにも、台所にも、家族が集うはずの居間にも、祖母の姿は見当たらなかった。まさか、こんな私を見捨てて、どこかへ行ってしまったのだろうか。その考えが頭をよぎると、心臓が氷のように冷たくなった。居間を通り抜け、玄関に祖母の履物があるか確かめに行こうとした、その時だった。
庭に面した大きな窓のカーテンが、ほんの少しだけ開いていた。そして、その隙間から、月明かりに照らされた庭に、誰かが立っているのが見えた。私は息を飲み、そっとその隙間から外を覗き込んだ。
そこにいたのは、祖母だった。
こちらに背を向けず、まっすぐに家の方を向き、まるで何かに取り憑かれたかのように無表情で突っ立っている。良かった、私を置いて行ったのではなかったのだ。安堵感で胸がいっぱいになり、思わずカーテンを開けて声をかけようとした。しかし、次の瞬間、私はその手を止めた。
何かがおかしい。いつもの優しい祖母とは、明らかに何かが違う。あんなにも気味の悪い、冷たい空気を纏った祖母は、今まで見たことがなかった。何がおかしいのかは、すぐにわかった。祖母の震える手には、生々しい血に濡れた、犬の首が握りしめられていたのだ。
どこから捕まえてきたのだろう。陽の光の下ではきっと温かい毛並みだったであろう、薄い茶色の毛。だらりと垂れ下がった舌。大きさからして、おそらく中型犬くらいだろうか。それでも、その首を断ち切るのは、どれほどの力と、どれほどの覚悟が必要だったのだろう。犬の首から滴り落ちる血は、祖母の足元に転がる胴体と思われる塊と、祖母自身の衣服をも、おぞましい赤黒い色に染め上げていた。
しばらくの間、祖母は人形のように微動だにせずそこに立ち尽くしていたが、やがて何かから解放されたように深く息をつくと、だるそうに犬の胴と頭を拾い上げ、闇の奥へと静かに消えていった。
見てはいけないものを見てしまった。その確信が、私の全身を恐怖で震わせた。私はもつれる足で布団へと戻り、どうかあの優しい祖母を元に戻してくださいと、存在するとも思えない神様に必死で祈り続けた。
翌朝、小鳥のさえずりで目が覚めると、祖母はいつものように私の隣で眠っていた。もし、昨夜の恐ろしい姿のままだったらどうしよう。その不安から、私は祖母を起こさずに、ただじっとその寝顔を見つめていた。やがて、祖母がゆっくりと目を開けた。
「おはよう、おなか空いたかい?」
そう言って穏やかに微笑んでくれた祖母は、紛れもなく、いつもの優しい祖母だった。ああ、良かった。心からの安堵と共に、私は「うん、おなかすいた」と、か細い声で答えた。祖母の体から微かに漂う、鉄錆のような生臭い匂いは、気づかないふりをした。
その日からだっただろうか。私の目には、家の中を、狐や狸、そして犬のような、ぼんやりとした獣の影がうろついているのが見えるようになった。父も母も、それらの存在には全く気づいていないようだったから、きっと私にしか見えていないのだろうと思った。ある日、思い切ってそのことを祖母に告げると、祖母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにとても嬉しそうな、それでいて何かを深く納得したような表情を浮かべた。
「それは、何をしてるんだい?」
祖母の問いに、私はありのままを答えた。父と母の周りにいつもまとわりついていて、それがくっついていると、二人ともとても気分が悪そうにしている、と。
それからというもの、夜中に母が苦悶の叫び声をあげることが多くなった。昼間も青白い顔をして、明らかに憔悴しきっている。どうやら、まともに眠れていないらしかった。母の体調が悪化するにつれて、私への直接的な折檻は目に見えて減っていった。しかし、その代わりに、彼女の内に溜まったやり場のない苛立ちは、より陰湿な形で私に向けられた。体中をライターの炎でじりじりと炙られたり、手のひらに鋭く研いだ鉛筆の芯を何本も容赦なく突き刺されたりした。痛みと共に、母の瞳の奥に宿る狂気が、私にははっきりと見えた。
その頃からだろうか、祖母は私に「これからは、玄関から出入りしちゃいけないよ」と、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言いつけた。私は理由を問わなかった。この世で唯一信じられる、大好きな祖母の言いつけだったから。それから、祖母と私は、裏庭に通じる小さな勝手口にそれぞれの履物を置き、そこから家に出入りするようになった。
家の中は、日増しに生臭い匂いが強くなっていった。特に、父と母の体からは、耐え難いほどの獣の臭いが漂ってくるようだった。あれほどまでに綺麗好きだった二人も、次第に身なりに構わなくなり、その姿は見る影もなく荒んでいった。爪は伸び放題で、その間には黒い汚れが詰まっている。着ている服も、いつ洗濯したのかわからないほど薄汚れ、食事の時には、いつの間にか箸を使わなくなっていた。
父が、ぶつぶつと意味不明な独り言を言うようになった。何を言っているのか知りたくて、背後からそっと近づいてみたが、その言葉はもはや人間の言語として聞き取ることはできなかった。父の体から発せられる強烈な悪臭。それは、私の目に映るケモノたちの臭いなのか、それとも、父が汚れた下着に溜め込んだ排泄物の臭いなのか、私には判別がつかなかった。
母は、金切り声をあげながら、虚空に向かって包丁を振り回すようになった。その狂気に満ちた瞳には、もはや私の姿は映っていないようだった。そういえば最近、折檻をされていない。母はもう、私の存在すら認識できなくなっているのかもしれない。
私が七歳になったある日、市役所や病院の職員と名乗る数人の大人たちが家にやって来て、父と母をどこかへ連れて行った。祖母は深々と頭を下げ、「何卒よろしくお願いいたします」と、彼らを見送っていた。重々しい空気を乗せた車が去っていくと、祖母はゆっくりと私の方を振り返り、そして、ふわりと、花が綻ぶようににっこりと微笑んだ。私も、つられるようににっこりと笑い返した。
大好きな祖母と二人きりだ。もう、何も怖いものはない。
十三歳の春、祖母は突然、脳梗塞で倒れ、体の自由がきかなくなってしまった。その頃からだろうか、家の中をうろついていたケモノたちが、皆、力なく横たわる祖母の周りに、まるで寄り添うようにまとわりついていくのが見えた。そのことを祖母に告げると、彼女はか細い声でため息をつき、「きっと……返ってきたんだねぇ……」と、遠い目をして呟いた。
それから二年という月日が流れた。祖母の痴呆はゆっくりと進行し、まるで無垢な子供に戻っていくかのように、その魂は薄れていった。そしてある日、全身に原因不明の激しい湿疹と蕁麻疹が広がり、血が滲むほど皮膚をかきむしりながら、祖母は静かにこの世を去った。遺体を解剖した医師は、死因は蕁麻疹によって喉が腫れ上がったことによる窒息死だと告げた。そして、原因不明とされたその湿疹と蕁麻疹は、おそらく動物アレルギーからくるものであろう、と。動物を飼ったことなど一度もなかったけれど、私はただ「わかりました」と静かに返事をした。
私は今も、あの古い家に一人で住んでいる。そして、相変わらず裏の勝手口から出入りしている。私の目には、あのケモノたちの姿も、そして、ケモノのようになってしまった祖母の姿も、はっきりと見える。祖母が、私を守るために一体何をしたのか、私は最後まで聞かなかったし、知ろうとも思わない。きっと、すべては私のために、深い愛情ゆえの行動だったのだろう。どのような姿であろうとも、大好きな祖母が今も私の側にいてくれる。ただそれだけで、私の心は満たされているのだから。
(了)
[出典:325 :名無しさん@おーぷん :2015/05/08(金)00:25:04]