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丼の増える部屋 rw+4,016

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あの街は、夜になると呼吸を始める。

地方都市の外れ、川沿いに広がる風俗街。昼間は色褪せた看板が風に鳴るだけの通りが、夕暮れとともにネオンを灯し、甘ったるい香水と排気ガスの匂いを混ぜて吐き出す。俺はそのど真ん中にある古びたラーメン屋「龍王軒」で働いていた。油で黒ずんだ換気扇、年季の入った寸胴鍋、ひび割れたカウンター。店は小さいが、夜が深まるほど客足は絶えなかった。

風俗嬢、送迎の男、裏方の従業員。化粧の下に疲労を隠した女たちが、湯気の向こうで無言で麺を啜る。ここは、彼女たちが戦場へ向かう前、あるいは帰還した後に腹を満たす場所だった。

この界隈で「龍王軒」が生き残ってきた理由は出前だ。店の裏路地に点在する寮へ、単品でも構わず届ける。ラーメン一杯、餃子一皿、チャーハン一つ。普通の店なら断る注文でも、マスターは黙って受けた。深入りしない。詮索しない。それがこの街の掟だった。

バイトは四人。俺と若月はよく組まされた。無口で、どこか醒めた目をした男だった。

南側エリアを担当していた若月が、ある日ぽつりと言った。

「二階二号室。毎日五時、チャーハン一つ。絶対にチャイム鳴らすなってさ。置いて帰れ、だと」

袋小路の奥にある木造アパート。昼でも薄暗い。そこは「訳アリ専門」と噂されていた。国籍も経歴も曖昧な女たち。精神を壊した者。薬に溺れた者。常連の話はどれも曖昧で、確証はなかったが、誰も否定もしなかった。

若月は言った。

「声、聞いたことねえ。顔も見たことねえ。でもな、丼に口紅ついてんだよ。毎回」

彼はそれを嬉しそうでもあり、不安そうでもある顔で語った。住人の正体を知りたいと、あからさまに焦れていた。マスターは珍しく強い口調で制した。

「若月、あそこはやめとけ。見なくていいもんもある」

だが若月は聞かなかった。

ある夜、帰り道で言った。

「明日、ノックしてみる」

冗談めかしていたが、目は本気だった。俺は止めなかった。止める理由を持っていなかったし、どこかで面白がっていた。

二日後、若月は消えた。

午後五時、いつも通りチャーハンを届け、戻り、洗い物をしていたという。気づけばいなかった。制服のまま。ロッカーに私服も財布も携帯も残したまま。

家にも戻っていない。警察に捜索願が出されたが、足取りは掴めなかった。

俺は何も言わなかった。ノックの話も、自分が背中を押したことも。

若月が消えてから、俺が南側を担当することになった。そして変化が起きた。

二号室の注文が、チャーハン二つになった。

管理人だという目の鋭い男が店に来て言った。

「二つだ。片方はグリーンピース抜きで」

若月は、グリーンピースが嫌いだった。まかないのチャーハンからも丁寧に取り除いていた。俺はそれを何度も見ている。

午後五時。袋小路の奥。湿った木の匂い。二階二号室の前に、チャーハンを二つ置く。チャイムは鳴らさない。ドアの向こうから物音はしない。

翌日、空の丼が二つ、きちんと重ねられている。片方の丼には、グリーンピースが一粒も残っていない。もう片方には、丁寧に端へ寄せられた緑色の粒。

最初は偶然だと思った。だが毎日そうだった。二つの丼。二つのレンゲ。グリーンピースの処理の仕方が違う。

俺は一度だけ、帰り際に振り返った。二号室のドアは閉じたまま。だが、ドアの下の隙間から、かすかな湯気のようなものが揺れている気がした。

ノックはしない。俺はしない。

ただ、岡持ちを抱え、午後五時にそこへ行く。二つのチャーハンを置き、階段を降りる。

最近、注文が増えた。

三つになった。

管理人は何も説明しない。ただ「三つだ。ひとつはグリーンピース抜き」と言った。

丼は三つ返ってくる。グリーンピースの扱いは、三通りだ。

全部食べられているもの。端に寄せられているもの。最初から入っていないもの。

若月の顔が曖昧になっていく。声も思い出せない。ただ、グリーンピースを嫌っていたことだけが、妙に鮮明だ。

この街では、消えることは珍しくない。理由もなく人が減り、誰も探さない。

午後五時になると、身体が勝手に動く。袋小路へ向かう。階段を上がる。ドアの前に丼を並べる。

置いた数より、返ってくる丼の方が多くなったら、どうするのか。

考えないようにしている。

今日も俺は、二号室の前に立つ。岡持ちの中で、湯気がゆらりと揺れている。

片方は、グリーンピース抜きで。

(了)

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