あの頃の俺は、地方都市の猥雑なネオンが瞬く風俗街のど真ん中にある、古びたラーメン屋で夜な夜な油にまみれていた。
場末感漂うその街は、昼間は気怠い静寂に包まれているが、陽が傾き始めると、まるで別の生き物のように妖しい活気を帯び始める。俺たちの店「龍王軒」は、そんな街の胃袋を支える小さな砦だった。カウンター数席とテーブルが三つほどの狭い店内だが、ひっきりなしに客が訪れ、夜が更けるほどにその喧騒は増していった。
客層は推して知るべし。これから艶やかな戦場へと向かう風俗嬢たち、その送迎や管理をする強面の男たち、あるいは一仕事終えて気だるげに煙草をふかす店の従業員。彼女たちは、派手な化粧の下に一日の疲れを隠し、あるいはこれから始まる夜への気合をみなぎらせて、湯気の立つラーメンを啜っていた。
「龍王軒」がこの界隈で不動の人気を誇っていた理由は、ただ一つ。『出前』だ。この風俗街には、店側が女の子たちのために借り上げたアパート、通称《寮》が無数に点在していた。煌びやかな店の裏手、薄暗い路地を入った先にひっそりと佇むそれらの建物からは、毎夜、まるで途切れることのない川の流れのように出前の注文が舞い込んできた。そのほとんどが、ラーメン一杯だけ、あるいは餃子一皿だけといった、普通の店なら眉をひそめるような単品注文。だが、うちのマスターは「おう、喜んで!」と二つ返事で、それらを俺たちバイトに運ばせた。だからこそ、彼女たちにとって「龍王軒」はなくてはならない存在だったのだ。
バイトは俺を含めて四人。古株の田中さん、お調子者の鈴木、そして、いつも俺とペアを組んでいた、どこか影のある若月。俺たちは二人一組で、店内業務と出前を日替わりでこなしていた。出前は時間との勝負だ。岡持ちの重さと戦いながら、入り組んだ路地を駆け抜け、目的の寮へと急ぐ。そんな日常の中で、いつからか若月の様子がおかしくなった。
出前エリアは、店を中心に大まかに北と南に分かれていた。俺が北側、若月が南側。その若月が担当する南側のエリアに、妙な客がいると言い出したのだ。
「またなんだよ、あの部屋。いつもチャーハン一つだけ。声も聞いたことねえし、顔なんて一度も見たことねえ」
ある日の休憩中、若月はうんざりしたように、それでいてどこか熱に浮かされたような目でそう呟いた。
その客が住むというアパートは、風俗街の中でも特に異彩を放っていた。古びた木造二階建てで、昼間でも陽が差さないような袋小路の奥に建っている。住んでいるのは、やはり様々な事情を抱えた風俗嬢たちらしいが、その筋の情報に詳しい常連客の話では、アジア系の言葉を話す女たち、南米から流れてきたという噂の女たち、そして、中には明らかに精神を病んでいる者や、シャブに手を出していると噂される女たちが集められた、いわば「訳アリ専門」の寮なのだという。
若月によれば、いつも午後五時きっかり。そのアパートの二階、二号室のドアの前に、注文のチャーハンを置いてくる。ただそれだけ。チャイムを鳴らすことも、声をかけることも許されていない。二週間ほど前、この辺り一帯を牛耳っている風俗業者――つまり、その筋の人間――が店に現れ、マスターに直接そう指示していったらしい。長年、この街で水商売を続けてきたマスターは、その手の特殊な注文や厄介な客には慣れっこだった。下手に深入りすれば、どんな面倒が降りかかってくるか身に染みて分かっているのだろう。多くを語らず、詮索もせず、ただ言われた通りに注文をこなす。それがこの街で生き抜くための暗黙のルールだった。
その話を聞いてから、俺たちバイトの間では様々な憶測が飛び交った。「借金のかたに売られて、監禁されてる女なんじゃねえか?」「いや、組のヤバい指名手配犯が潜伏してるって線もあるぞ」などと、面白半分に、しかしどこか本気で囁き合った。若月は、住人の顔も声も知らないと言いつつも、下げてきた食器に時折、安っぽい口紅の跡が付着しているのを見つけては、「やっぱり女だ…若い女に違いない」と妙な確信を深めていた。
俺や他のバイト仲間は、実際にそのアパートに足を踏み入れたこともなく、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。少し気味が悪いな、と思う程度で、それ以上深く関わろうとは思わなかった。だが、若月だけは違った。彼は異常なまでに、その二号室の住人に執着し始めていた。顔なじみの出前先の風俗嬢たちに、それとなくあのアパートの二号室について探りを入れたりもしていたらしいが、誰もが気まずそうに顔を伏せ、口をつぐんでしまうばかりだったという。マスターも、若月の常軌を逸した興味の持ちように気づいていたのだろう。「おい若月、あんまりあの件に首を突っ込むなよ。ろくなことにならんぞ」と、珍しく強い口調で釘を刺すほどだった。
そして、運命の日が近づいていた。ある夜、バイトを終え、若月と二人で人気のない夜道を歩いていた時だった。彼は、まるで独り言のように、しかし確かな意志を込めて、ボソッと呟いた。
「俺……明日あたり、あの部屋のドア、ノックしてみようかな……」
何か適当な理由をつけて――例えば、釣銭を間違えたとか、注文内容の確認だとか――ドアをノックし、住人が顔を出すのか、どんな人間なのかを確かめるつもりらしかった。その時の俺は、彼の真剣な眼差しに少し気圧されながらも、どこかスリルを求めるような軽薄さで、「いいじゃん。度胸試しだと思って、チャレンジしてみれば?」などと、無責任な言葉を返してしまったのだ。今思えば、あの時止めていれば……。
その翌日と翌々日、俺はたまたまバイトが休みだった。二日間の怠惰な時間を過ごし、再び「龍王軒」の暖簾をくぐった俺を待っていたのは、マスターの険しい顔だった。
「おい、お前、若月と一番仲が良かったよな?」
低い声でそう問われ、俺は嫌な予感を覚えながら聞き返した。
「若月がどうかしたんですか?」
マスターは深いため息をつき、信じられない言葉を口にした。
「アイツな、一昨日から…行方不明なんだよ」
若月は、俺が休んでいた初日、いつもと同じようにバイトに来て、黙々と仕事をこなしていたという。そして、午後五時。例の二号室へのチャーハンの出前も、いつも通りに届けた。店に戻ってきてからは、しばらく店内の接客や山のような食器洗いをしていたが、ふと気づくと、いつの間にか姿が見えなくなっていたらしい。
「トイレにでも行ったんだろうと思って、気にも留めてなかったんだがな…」
マスターは悔やむように言った。しかし、若月はそれっきり店に戻ることはなかった。店の奥にある小さな更衣室のロッカーには、彼の私服も、財布も、携帯電話も、全てが置きっぱなしになっていた。まるで、ほんの少し席を外しただけ、というように。
「若月、何か悩み事とか、お前に相談してなかったか?」
マスターに改めて問われたが、俺には何も思い当たる節がなかった。確かに彼は少し変わっていたが、失踪するほど深刻な悩みを抱えているようには到底見えなかった。そもそも、着の身着のまま、制服姿で仕事の途中に姿を消すなんて、どう考えても普通の状況ではない。
結局、若月は一人暮らしのアパートにも戻った形跡がなく、マスターが彼の東北にある実家に連絡を入れ、家族が警察に捜索願を出したと聞いた。
「若月は、そんなふらっといなくなるような奴じゃなかったよな…」「絶対何か事件に巻き込まれたんだよ」バイト仲間たちは口々にそう言い合い、店内の空気は重く沈んでいた。
俺の胸の内には、あの夜の若月の言葉が重くのしかかっていた。
(アイツ、本当に…あの寮のドアをノックしたんじゃないか? そして、見てはいけない何かを…見てしまったんじゃないだろうか。だから…)
そんなおぞましい妄想が頭をよぎったが、若月がそんな無謀な計画を立てていたことを、俺は誰にも話すことができなかった。自分の軽はずみな一言が、彼を危険な淵へと後押ししてしまったのではないかという罪悪感が、口を固く閉ざさせた。
若月が消えたことで、皮肉にも俺が南側のエリア、つまりあの忌まわしい二号室の出前を担当することになった。そして、奇妙な変化が起きた。それまで頑なにチャーハン一皿しか注文しなかった二号室の住人が、若月がいなくなった直後から、チャーハンを二皿注文するようになったのだ。
その事実が、俺の背筋をぞっとさせた。まるで、そこに「もう一人」増えたかのように。
例の風俗業者の寮の管理人だという、目つきの鋭い男が若月の失踪後すぐに店に現れ、マスターにそう頼んできたという。そして、さらに不可解な注文を付け加えた。
「片方のチャーハンは、グリーンピースを入れないでくれ」と。
俺はそれ以来、毎日午後五時になると、重い足取りで例のアパートへ向かう。二号室のドアの前に、二枚重ねて置かれた空の丼とレンゲを見るたびに、胸が締め付けられるような恐怖を感じた。グリーンピースが死ぬほど嫌いで、いつもチャーハンを頼むときには「グリーンピース抜きで!」と騒いでいた若月の顔が、鮮明に蘇ってくるのだ。そして、片方の皿だけグリーンピースが丁寧に避けられているのを見ると、また、ほんのりと怖くなるのだった。
もちろん、これは全て俺の行き過ぎた想像で、ただの偶然が重なっただけなのかもしれない。若月は、何か全く別の理由で、どこか遠くへ行ってしまっただけなのかもしれない。
そう信じたい。
だが、あの二号室のドアの奥に広がる闇を思うと、そんな希望的観測はたやすく打ち砕かれる。
若月は、今もまだ発見されていない。
そして俺は今日も、二つのチャーハンを岡持ちに詰め、あの風俗街の薄暗い路地を、まるで何かに引き寄せられるように歩いている。片方は、グリーンピース抜きで。
(了)