俺が十八か十九の頃の話だ。
生まれ育った家は、山を背にした集落のいちばん奥にあった。夜になると家々の明かりは早く消え、道から人の気配がなくなる。聞こえるのは、風に擦れる杉の葉の音と、田んぼの方から上がってくる虫の声くらいだった。
その道の途中に、ひとつだけ妙に新しいバス停があった。
田舎の停留所といえば、色の褪せた標識が一本立っているだけ、みたいなものを想像するだろう。だが、そこだけは違った。壁のない東屋がきちんと組まれ、木もまだ白く新しく、屋根も妙に立派だった。観光地の休憩所を、そのまま場違いな山道に置いたみたいだった。
なのに、利用している人を見たことがない。
そもそも、あの道を通るバス自体、俺は見たことがなかった。時刻表は貼ってある。停留所の名前もある。けれど、朝でも夕方でも、そこで誰かが待っているところを一度も見たことがない。通学で自転車を飛ばしていた頃も、免許を取ってから深夜に車で走るようになってからも、あそこだけはいつも空っぽだった。
たまに前を通るたび、妙な感じがした。新しすぎるのだ。何年も前からある景色の中で、あそこだけ時間の進み方が違うみたいに、いつ見ても出来たてに見えた。
その理由を聞いたのは、夏の終わりの夜だった。
仲間の家で酒も入らないままだらだら集まっていた時、誰かがあのバス停の話を持ち出した。
「あそこ、前は古い小屋だったんだってよ」
「知ってる。婆さんが死んだとこだろ」
そう言ったやつは、面白がっているような口調だった。
少し前、その近所の婆さんが焼身自殺したらしい。夜中に一人でバス停に行き、灯油をかぶって火をつけた。小屋ごと燃えたから建て替えた。そんな話だった。俺も詳しくは知らなかったが、年寄りがひどい死に方をしたという噂だけは、どこかで耳にした覚えがあった。
「で、出るらしいぞ」
「何が」
「だから、その婆さんが」
笑いながら言う連中の中で、俺だけが鼻で笑った。昔からそういう話は信じていなかった。霊だの祟りだの、見たこともないものを本気で怖がる感覚がわからなかった。
すると、一人が俺を見て言った。
「じゃあ行ってみるか。お前、そういうの平気なんだろ」
挑発だとすぐわかった。その場には女の子も二人いた。変に臆したところを見せたくなくて、俺はほとんど反射で答えていた。
「いいよ。今から行こうぜ」
時刻は午前二時を回っていた。
男女合わせて七人。車二台に分かれて、山道を上がっていく。ヘッドライトが照らす道の外は、潰れたみたいな闇だった。窓の外に見えるガードレールの向こうは谷で、その先は何も見えない。街灯もない。カーブを曲がるたび、光が林の幹を一瞬だけ浮かび上がらせて、すぐ飲み込んだ。
やがて、道の脇に白っぽい屋根が見えた。
あのバス停だった。
昼に見るより、ずっと場違いだった。闇の中に、そこだけ形がはっきりしすぎている。使われないはずのものが、誰かを待つための形だけ整えて、じっと立っているように見えた。
車を適当に停め、みんなで東屋に入った。
中は本当にきれいだった。落書きもなく、タバコの吸い殻もなく、床にゴミひとつ落ちていない。ベンチの木目まで妙にくっきりしていて、夜中の肝試しの現場というより、昼間なら老人会の休憩所にでも見えそうだった。
「全然こわくないじゃん」
そう言って笑った女の子に合わせて、みんな少し気が緩んだ。コンビニで買った菓子を広げ、ジュースを回し、他愛もない話をした。虫の声は聞こえていたし、風もあった。何も起きない。俺はむしろ拍子抜けしていた。
その時、一人が急に黙った。
「なあ」
声の調子が変わっていた。
「さっきから、あそこ変じゃねえか」
指差した先は、バス停のすぐ脇の竹藪だった。
周囲は背の高い竹がびっしり生えているのに、その一角だけ、ぽっかり丸く抜けていた。竹が生えていない。闇がそこだけ少し深い。人ひとり立てるくらいの空間が、黒い染みみたいに口を開けていた。
言われてみれば、最初から視界に入っていたはずなのに、なぜか今まで気づかなかった。
「穴みたいだな」
「最初からあったっけ」
「なんか嫌だな」
女の子たちの声が急に小さくなった。ふざけた空気がそこで途切れた。
俺は、その沈み方がかえって嫌だった。誰かが怖がり出すと、全員そっちに引っ張られる。そういう空気の変わり方が気に食わなくて、俺は笑いながら立ち上がった。
「見てくればいいんだろ」
「やめとけって」
誰かが言ったが、半分本気で、半分は止める自分たちを楽しんでいるようにも聞こえた。俺は手を振って、東屋を出た。
土は湿っていた。昼間に雨が降ったのか、踏むたびに靴の裏が少し沈む。竹の葉が肩に触れた。中に入るにつれ、虫の声が遠のいた。消えたわけではないのに、後ろに置いてきたみたいに薄くなる。
黒く抜けた場所に立つと、確かにそこだけ何もなかった。
地面には落ち葉が積もり、低い雑草が少し生えているだけだ。周りを見回しても、穴も獣道もない。ただ、竹に囲まれて、そこだけ丸く空いている。理由のわからない空間だった。
「ほら、何もねえよ」
東屋の方を向いてそう言った。みんなの顔は暗くてよく見えなかったが、誰も笑わなかった。
その直後だった。
「おい、戻れ!」
友人の声が、いきなり怒鳴り声になった。
俺は振り返らずに笑った。
「何だよ」
「いいから来い! 早く!」
声が重なった。ひとつじゃない。男の声も、女の声もした。さっきまで一緒にいた六人が、同じものから目を離せないでいる時の声だった。
そこで初めて、本気の調子だとわかった。
東屋を見ると、六人がもうこちらではなく、俺の右の方を見ていた。女の子は一人が口元を押さえ、一人は泣き顔のまま固まっている。男連中も立ち上がっていた。誰も俺と目を合わせない。
その視線の向きだけで、急に背中が冷えた。
俺はその時、自分の右を見なかった。
見れば何かある、という確信が、その瞬間だけはあった。見たくないと思う前に、見たら終わる、と身体が勝手に理解した。だから俺は東屋だけを見たまま、そこに向かって走った。
後ろで、乾いた音がした。
足音ではない。竹の葉が擦れたような、小さな衣擦れみたいな音だった。近いと思った。振り向かなかった。
東屋に飛び込むと同時に、誰かに腕を掴まれた。
「乗れ!」
誰が言ったのかわからない。全員が崩れるみたいに車へ向かって走り出した。女の子の泣き声が耳に刺さる。俺もわけがわからないまま運転席に飛び込み、キーを回した。エンジンはかかった。後続の車もついてくるのがミラーに見えた。
山道を下りながら、助手席のやつが何度も後ろを振り返っていた。
「何なんだよ、言えよ!」
そう怒鳴ったが、返事はなかった。後部座席では誰かがしゃくり上げていた。車内の空気が狭く、熱く、なのに俺の手だけが冷えていた。
その時、いきなり全部落ちた。
ブゥン、と変な音がして、エンジンが死んだ。ヘッドライトも消えた。メーターもオーディオも、一瞬で真っ黒になった。
山の闇が、窓の外からではなく、車の中にまで流れ込んできたようだった。
「うそだろ!」
キーを回しても反応がない。ブレーキを踏んでも軽い。車は惰性で下っていく。誰かが泣きながら俺の肩を掴んだ。ハンドルが急に頼りなくなる。路肩も見えない。谷に落ちると思った。
俺はほとんど勘でハンドブレーキを引いた。
車体が横に流れ、嫌な音を立てて、どうにか止まった。
しばらく誰も動けなかった。息をしている音だけが狭い車内に溜まっていた。後ろの車は少し離れた場所で停まっていた。真っ暗で、輪郭しかわからない。
「降りよう」
誰かがそう言った。
何が正しいのかわからなかったが、あのまま山の中腹でじっとしている方がまずい気がした。車を降りると、風が妙にぬるかった。さっきまで聞こえていた虫の声が、この辺りではまたしていた。
歩き出した友人たちはすぐ前にいるはずなのに、すぐ姿が見えなくなった。闇の中では、数メートル先の人間も形が曖昧になる。女の子を挟んで歩いているうち、後続の車の連中が追いつき、結局みんなで二台に押し込まれるように乗り直して山を下りた。
今度は何事もなくエンジンがかかった。
開けた場所まで出て、ようやく車を停めた。誰もすぐには喋らなかった。全員、さっきの場所から目だけ先に逃がして、身体はまだ置いてきたみたいな顔をしていた。
そこで、助手席のやつが俺を見た。
「お前、本当に気づかなかったのか」
「だから何がだよ」
声が思ったよりかすれていた。
そいつはすぐには言わなかった。代わりに、後ろの席にいた女の子が先に泣きながら言った。
「いたの……あなたの右に」
別のやつが続けた。
「婆さんだよ。背中、焼けただれてて、立ってた」
「包丁みたいなの持ってた」
「違う、鎌だろ」
「いや、長くなかった。台所の包丁みたいな」
言っていることは少しずつ違うのに、全員が見たと言った。俺が黒い空間の中で立ち止まった時、その右側に、いつの間にか老婆が立っていた。顔はよく見えないのに、焼けた皮膚と、手に何か刃物のようなものを持っていることだけはわかったという。
そして、俺に向かって、ゆっくり手を上げたのだと。
「だから呼んだんだよ」
「お前、全然反応しねえから」
「なんで見ないんだよ」
責めるような口調ではなかった。ただ、本当にわからないという顔だった。
俺は何も言えなかった。何も見ていない。だが、六人が揃って同じ嘘をつく理由もない。むしろ、細部が少しずつ食い違っているせいで、かえって嘘には思えなかった。
夜が明けてから、別の仲間を呼んで車を取りに戻った。
エンジンは何の問題もなくかかった。バッテリーも普通だった。整備の詳しいやつが首をひねったが、理由はわからなかった。
ついでに、あの竹藪の空いた場所をもう一度見た。
昼の光の下では、そこはただの小さな空き地にしか見えなかった。夜の黒さはもうない。落ち葉が湿っていて、その端に、小さな地蔵が半分埋もれて立っていた。誰かが供えたのか、色の抜けた前掛けみたいな布が首元に巻かれていた。
それだけだった。
ただ、その場で一人が変なことを言った。
「あれ」
皆がそいつを見た。
「昨夜さ、婆さんが手ぇ上げたって言っただろ」
「うん」
「違ったかもしれん」
何を言い出すのかと思った。そいつは竹藪の奥を見たまま、嫌な顔で続けた。
「手を上げたの、婆さんじゃないかもしれん。お前の方だったかもしれん」
笑うやつはいなかった。
「何言ってんだよ」
俺はすぐ否定した。そんなことするはずがない。
そいつも自信があるわけではなさそうだった。
「いや……暗かったし、俺も混乱してた。でも、お前、最初に『何もねえよ』って言ったあと、少し黙っただろ。その時、お前の右に何か立ってて、それが手を上げたと思った。でも今思うと、お前も同じ向きに、こう……」
そいつは胸の横で右手を少し持ち上げて見せた。
ぞっとした。
俺にはそんな記憶はない。走った記憶しかない。だが、記憶なんて当てにならないことは、自分でも知っている。恐怖の最中ならなおさらだ。
結局、その話はそれきり誰もしなくなった。
山の中のそのバス停は、今もある。
何度か昼間に前を通ったが、やはり利用者を見たことはない。時刻表は貼り替えられているのに、待っている人間がいない。東屋は相変わらずきれいで、古び方まで妙に浅い。
あの夜のことを思い出すたび、俺はいまだにひとつのことだけがわからない。
六人が見たものが本当にいたのかどうかじゃない。
それなら、まだ話は簡単だ。
わからないのは、俺が何も見えていなかったのか、それとも、見えていたから振り返らなかったのか、ということだ。
もっと言えば、あの時みんなが慌てたのは、俺の右に婆さんが立っていたからなのか。
それとも、その婆さんに向かって、俺が先に手を上げたように見えたからなのか。
そこだけ、誰に聞いてもはっきりしない。
ただ、あの話をすると決まって最後に聞かれる。
「そのバス停、どこにあるんだ」と。
場所を教えたことはない。
教えなくても、探そうとするやつが出るからだ。
そして、そういうやつほど、後で同じことを言う。
昼間に見に行っただけなのに、あそこに立つと、誰かを待っている気がした。
自分が、ではない。
誰かが自分を待っているのでもない。
先に着いていた誰かに、遅れて来た自分が、つい会釈を返してしまいそうになったのだと。
[出典:979: 本当にあった怖い名無し 2016/08/03(水) 23:33:51.96 ID:6I4LHXmC0.net]