「俺が死んだら骨の半分は海にまけよ」という、少々迷惑な遺言を残す父。
自称「海の男」だ。そんな父が、初めての長期航海に出る弟に話していたことを思い出して書いてみる。
弟は父と同じ学歴をたどった。西日本では少し有名な水産高校に進学し、その後2年間の専門課程に進んだ。船酔いがひどい弟が父と同じ道を選ぶとは夢にも思わなかった父は、毎日嬉しそうだった。
弟が遠洋漁業の研修航海でハワイに行く数日前のこと。父が弟に何か真剣な顔で語っていた。
「ハワイに着くまでに、赤道付近で日付変更線を越えるだろう。その時、甲板作業になりそうだったら仮病でもいい。絶対に船外に出るな。お前は船酔いがひどいから、先生も許してくれるだろう」
弟が「なんで?」と尋ねると、父は「いいけん。お父さんの言うことを聞け」と強い口調で答えた。
赤道付近は夜になると波が荒れるという話は聞いたことがあったが、日付変更線に関しては特に何も知らなかった。そのため、当時の私は父と弟の話を「変な男同士の話だな」と思っただけだった。ただ、普段サボりや仮病を嫌う父が、そんなことを言うのが妙に引っかかっていた。
弟が帰港した日、彼は日に焼けて少したくましくなったように見えた。そして、父の助言を覚えていた弟は、赤道付近の荒波の中、日付変更線を越える間は嘔吐と戦いながら船内でぐったりしていたという。そのため、甲板作業をすることはなかった。
しかし、弟はこう語った。
「あの時甲板勤務についていた三人が、その後そろって学校を辞めた」
一人は弟の親友だった。その親友が辞める理由を聞いたのは、弟が船酔いから回復し、ハワイ付近に近づく頃だった。
「お母さんが大変な病気だから、早く帰って世話をしなければならない」
親友は思いつめた様子で話していた。弟はそれを心配し、先生に「そういう連絡があったのか」と尋ねたが、先生の返事は「そんな連絡は今のところないぞ」というものだった。
それを親友に伝えても、「早く、早く帰らないと心配だ」と繰り返すばかり。その後の研修も上の空だったらしい。
一方、残りの二人も日付変更線を越えた後に疲れた様子で先生に「日本へ帰りたい」と訴えたという。先生は彼らをなだめたり叱咤したりしたが、彼らの帰国願望は変わらなかった。とはいえ、船員手帳の手続きが煩雑であり、他の生徒たちへの影響も考慮し、すぐに帰国させるわけにはいかなかったようだ。
弟たちはその後無事に帰港。帰りの日付変更線では何事もなく、穏やかに航海を終えることができた。
だが、帰港の二日前、弟の親友の母の訃報が船に届いた。それを知った弟は、赤道付近での出来事とあの三人の自主退学を思い出し、次第に「日付変更線には何かがあるのではないか」と思うようになった。
弟は親友にかける言葉が見つからず、結局、あの日何があったのかを聞くことはなかった。親友もその話題を避けるようで、ただ悲しそうな顔をしていたという。
その話を聞いた私も、弟と同じく「なぜ父はあんなことを言ったのだろう」と疑問に思った。そして、その答えは父の口から語られた。
父は言った。
「海にはそういうことがある。俺もたまたまそうじゃなかっただけだ。それでも何があったのか知りたいとは思わない。自分から進んで近づかないことが大事だ」
その言葉から、父が海に抱いている何か重い感情が伝わってきた。弟や親友の体験を聞き、父の話を思い出してみると、海という存在の中に、ただの自然の驚異ではない何かが潜んでいるのではないかと思えてきた。
しかし、父は霊的な話には触れない。そして、あくまで自分の経験や見聞を語るだけで、深く詮索しない態度を崩さない。その慎重さに、むしろ信憑性を感じてしまう。
弟の親友をはじめとする三人に何があったのか。結局、私たちはそれを突き詰めることはなかった。
父は霊を信じていないようで、怪異らしき話もどこか軽く扱う傾向がある。そのため、彼の話には奇妙さよりも独特な面白さがあるのだ。
父のほかの話も含め、長い航海の中で人が精神的に追い詰められることがあるのは事実だろう。特に初めての航海や若い世代には、それが一層の負担になる。赤道付近の日付変更線という場所が持つ不思議さと怖さに、父と弟の話が改めて私の中で色濃く残っている。
父の他の「海の話」も興味深いものばかりだが、この日付変更線にまつわるエピソードは、家族の中で最も不思議で、記憶に強く刻まれた出来事だと思う。
(了)