小さい頃から、何度も同じ夢を見る。
夢の中で、いつも「ああ、またここだ」と思う。けれど目が覚めた瞬間、内容だけがきれいに抜け落ちる。残るのは、同じ夢を見たという確信と、胸の奥を押しつぶすような帰郷欲だった。戻りたい。帰りたい。そう思うたび、懐かしさより先に吐き気がこみ上げる。無理に思い出そうとすると、こめかみの奥を硬いもので叩かれるように痛んだ。
去年のある朝、またその夢を見た。
その日は起き上がるなり手帳を開いて、震える手で夢の内容を書き留めた。夢から覚めた直後なら、まだ間に合う気がした。何を見たのか、どこにいたのか、そこで自分が何をしていたのか。書けるだけ書いて、ページを閉じ、手帳を机の引き出しにしまった。帰宅したら読み返そうと思っていた。書いておけば消えない。そう思った。
その日の仕事中、私は何度か、自分でも理由のわからない不安に襲われた。早く帰らなければならない気がして落ち着かず、時計ばかり見ていた。ようやく帰宅して、上着も脱がずに引き出しを開けた。
書いたはずのページだけが、きれいに破り取られていた。
手帳の綴じ目には、紙を引きちぎった白い繊維だけが残っていた。ゴミ箱をひっくり返し、机の下まで探したが、破られた紙は出てこなかった。部屋の鍵は朝、自分で閉めた。窓も閉まっていた。金目のものには何ひとつ手がついていない。
意味がわからなかった。
私は壁のカレンダーにその日の日付だけ赤い丸をつけ、横に小さく印を残した。夢のことを書いたつもりだった。あとで見返せば思い出せるように。
翌朝、そのカレンダーは茶色く変色していた。
そこだけ何年も日に焼けたみたいに色が抜け、紙が乾いて波打っていた。前の月も、その次の月も無事なのに、その一枚だけがひどく古びていた。昨日つけたはずの赤い丸も、よく見ないとわからないほど薄くなっていた。指でなぞると、そこだけ紙がもろくなっていて、爪が少し触れただけで表面がはがれた。
気味が悪くなって、その週のうちに引っ越し先を探し始めた。
荷造りの途中で、本棚を動かすことになった。古い木製の大型の棚で、中身を全部抜いても私ひとりではびくともしない。床に傷をつけながら少しずつずらしていたが、途中で無理だと諦めて、親戚に手伝いを頼んだ。来てもらった二人と三人がかりでようやく壁から引きはがした。
その裏の壁だけが、妙に白かった。
長いあいだ光を遮られていたせいで、周囲より新しいのだと最初は思った。けれど、その白い面には文字がびっしりと書かれていた。

すべて、私の字だった。
最初は小さい。ノートの隅に走り書きしたような、遠慮のある細い字で、同じ言葉が何度も並んでいる。帰りたい。帰りたい。帰りたい。そこから少しずつ字が乱れ、線が強くなり、壁に食い込むみたいに筆圧が深くなっていく。途中から、帰りたいではなく、ここじゃない、に変わっていた。さらにその下には、思い出させないで、やめて、ちがう、という短い言葉が何重にも重なっている。
最後のほうは、もはや文章になっていなかった。
同じ文字のようで違う、私には読めない言葉が何列も続き、その上から乱暴に塗りつぶすように線が走っていた。書き直したというより、見たくないものを消そうとした跡に見えた。壁紙はところどころ削れ、爪で引っかいたような痕まで残っていた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
自分で書いた字だということだけは、見ればわかる。癖も、はね方も、とめ方も、間違いなく自分のものだった。けれど、この本棚を夜中にひとりで動かし、その裏の壁にあれだけの文字を書きつけた記憶はない。書いている最中、どうやって部屋に戻ったのかも思い浮かばない。
思い浮かべたくなかった。
そのとき、不意に思い出したことがある。
数か月前、一度だけ心療内科の待合室で見かけた女のことだ。
三十歳前後に見えた。季節に合わない白いレースの服を何枚も重ねて着ていて、大きな人形を胸に抱いていた。診察を待つあいだ、その女はずっと、知らない言葉で歌のようなものを口ずさんでいた。外国語だと思ったが、どこの国のものかは見当もつかなかった。声は高く、妙にやさしかったのに、聞いているうちに、夢から覚めたあとのあの感覚が胸の奥からゆっくり上がってきた。
懐かしいのに、思い出したくない。
帰りたいのに、帰った先で何が待っているのか絶対に知りたくない。
あの気分が喉元まで込み上げて、私は思わず耳を塞ぎかけた。
すると女が歌うのをやめた。
まっすぐこちらを見た。笑っていた。目だけが少しも笑っていなかった。
そして、湿った低い声で言った。
「懐かしいでしょう。」
それから少し首を傾けて、抱いていた人形の頭を撫でながら、続けた。
「あなたも、前はちゃんと歌えていたのに。」
隣にいた母親らしい女性が、申し訳ありませんと何度も頭を下げていた。私はそのとき、ただ視線をそらしてやり過ごした。触れてはいけない人だと思っただけだった。
でも、本棚の裏の文字を見てからは、あの歌が頭から離れない。
思い出せないはずなのに、もう少しで続きを口ずさめそうな気がするときがある。
壁の文字は、引っ越しの前に写真に残そうとした。私が自分の携帯を向け、手伝いに来ていた親戚二人もそれぞれ撮ろうとした。三人とも、シャッターを切った瞬間に電源が落ちた。充電は十分にあった。再起動して確認したが、写真は一枚も保存されていなかった。親戚は「まあ、こういうこともある」と言って笑っていたが、壁の文字をもう一度見たときには、さっきまで読めていた部分まで、急に判別しづらくなっていた。
引っ越しは予定通り終わった。
新しい部屋の壁は白く、傷も染みもなく、夜になっても物音はほとんどしない。前の部屋より狭いが、そのぶん余計な影ができない。眠る前に壁を見ても、何も書かれていない。ただの白い壁だ。
それなのに、たまに、無性に懐かしくなる。
この白さを見るたび、どこか別の場所を思い出しかける。
あの夢は、今年に入ってからまだ一度も見ていない。
見ていないはずなのに、夜中にふと目が覚めると、自分の喉がひどく乾いていることがある。何かをずっと歌っていたあとのように。
[出典:789 :本当にあった怖い名無し:2011/07/25(月) 23:19:52.27 ID:Fykhyl2UO]